『種を語ること、定義すること:種問題の科学哲学』書評

網谷祐一
(2020年12月20日刊行,勁草書房,東京, viii+238+xv pp., 本体価格3,200円, ISBN:978-4-326-10288-4目次版元ページ

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肩透かしから学ぶ「種問題」の現在

「《種》とは何か?」「《種》はどのように定義できるのか?」—— 生物体系学において長きにわたって戦わされてきた「種論争」のなかで幾度も問われ続けてきたこれらの疑問は現在もなお解決できてはいない.地球上の生物多様性を語るとき,誰もが “共通通貨” として使うに値する《種》の概念があればさぞかし役に立つだろう.しかし,過去何世紀にも及ぶ種論争の泥沼から抜け出られる気配はいまだにない.ワタクシはこの種論争は解決されることに意義があるのではなく,いかにしてそれとともに “共存” し続けるかを考えた方がはるかにシアワセな人生を送れるのではないかとさえ考えることがある.

 

《種》に関する数多の本や論文をワタクシはこれまで読んできたが,本書はそのユニークな着眼点からして類書とは一線を画する新刊だ.生物学の哲学を専門とする著者ならば,これまでの論者たちの鼻を明かすような種論争に対する “最終的(ultimate)” かつ “根本的(radical)” な解答を与えてくれるのではないかと読者は期待するにちがいない.しかし,本書冒頭で著者はあっさり言う:

 

「この本は「種とは何か」という問いへの答えを明らかにしようとする本ではない.この本を最後まで読んでも「種とは何か」,「種を何によって定義したらよいのか」ということはわからない.では,この本はどういう本なのか.この本は「種問題と,特に『種』という概念と,科学者がどうつきあっているのか」を明らかにする本である」(p. ii)

 

読者の中にはこの一節を読んだだけで盛大に “肩透かし” を喰らったような気になる向きもきっとあるにちがいない.種問題への新たな “解答” が提示されないのであれば,そんな本は最初から読む価値がないのではないか,と.

 

しかし,この “肩透かし” こそが現代の「種問題」に対峙する著者独自のねらいだ.種問題に対して真正面から突撃するのではなく,科学者とそのコミュニティーがどのように《種》と “つきあって” きたのかを探ることで,側方から種問題を論じようとする —— このアプローチは生物学の哲学サイドならではの着眼ではないだろうか.

 

著者はこのアプローチに思い至った経緯を述べている:

 

「種は生物学にとって重要な単位であり,種問題は重要な未解決問題である.これは種問題を論じる論文で,哲学者だけではなく生物学者によっても何度も繰り返されてきた主張である.しかし生物学者はの振るまいを見ると,それとは必ずしも相容れない態度を見せている.生物学者が種問題に対して見せるこの矛盾 —— 文字通りの矛盾とまでは言えないにしても,いずれにせよ互いに相反する態度 —— をどう理解すればよいのだろうか.これが種問題の研究を進めていくうちにわたしの前に立ち現れてきた大きな問いだった」(p. iii)

 

続く章ではこの問題意識に沿って議論が展開されていく.

 

第1章「種問題とは何か」(pp. 1-30)では,本書全体の序論として,これまで提唱された主要な「種カテゴリー」すなわち「種概念」—— 形態学的種概念・生物学的種概念・系統学的種概念など —— が概説され,続いて「種タクソン」に関する「個物説」の説明がなされる.《種》について予備知識のある読者ならばさらりと復習できるだろう.

 

本書全体を通じて,論議の対象となる《種》が「種カテゴリー」なのかそれとも「種タクソン」なのかが判別しにくいきらいがあり,読者は適宜いずれかを見分けながら読み進む必要がある.種カテゴリーと種タクソンの区別については,第1章の注1(p. 222)で詳細に説明されているのだが,これはむしろ注ではなく本文中に移した方が適切だったのではないだろうか.

 

続く第2章「合意なきコミュニケーション」(pp. 31-77)は,生物学者たちが《種》とどのように “つきあって” きたかが論じられる.著者がとりわけ注目するのは,《種》の定義に関して研究者コミュニティーの内部でコンセンサスがないにもかかわらず,なぜ彼らは互いにコミュニケートできるのかという点だ.《種》が示す指示対象が完全にずれていれば,きっとコミュニケーション不能に陥るだろう.しかし,実際にはそのような事態には陥っていない.その理由はどこにあるのかと著者は問いかける.

 

科学史上の事例として挙げられているのはいずれも19世紀のケースで,19世紀イギリスにおいて命名規約をめぐって戦わされたヒュー・ストリックランドらの論争,同時代の大英博物館における所蔵標本のカタログ化に関わるジョン・エドワード・グレイの実践,そしてチャールズ・ダーウィンによる《種》を論じた.

 

ダーウィンが《種》をどのように定義したかはこれまでも議論されてきたが,著者はダーウィンが《種》に関しては「指示的用法」(p. 45)を採用し,「ナチュラリストが種と呼ぶもの」(p. 46)という言い方で直接的に「種とは何か?」を論じてはいない点を指摘する.そのスタイルが有効であるのはダーウィンと同時代のナチュラリストたちが《種》の指示対象に関して重なりがあるからこそだろう.

 

この第2章でとりわけ興味深いのは20世紀の事例である.ガイ・L・ブッシュは,彼が提唱する同所的種分化をめぐって,ジェリー・コインやH・アレン・オア,そして生物学的種概念と異所的種分化を提唱したエルンスト・マイヤーらとの間で論争を戦わせた.そこでは《種(species)》と「種分化(speciation)」についてどちらを優先すべきかという論点で対立があった.《種》の定義がなければ種分化は研究できないのか,それとも種分化研究には《種》の定義は不要なのかという対立だ(p. 49).ブッシュは後者の立場を支持し,コインとオアはどちらかと言えば前者寄りだった.マイヤーが強固に前者の見解を擁護するのは当たり前で,彼はすべての進化研究の前提は《種》の研究から始まると,進化的総合の最初から言い続けてきた.

 

ブッシュ,コイン,オアの三者がリンゴミバエのホストレースをめぐる別の論争にも関わったことは,たとえ種概念に関する対立があったとしても,指示対象が重なっていれば論争という研究者間のコミュニケーションは可能である証左だと著者は言う.この話題は科学哲学における「通約不可能性(incommensurability)」の論議と関わっている.種カテゴリーという「タイプ」と種タクソンという「トークン」の関係(p. 71)を踏まえ,著者は種論争においてたとえ《種》の定義(「タイプ」の定義)が対立したとしても,トークンである種タクソンのレベルで指示対象が重なっているために研究者コミュニティー内での通約不可能性は「軽減」され,深刻なコミュニケーション不全に陥らないのではないかと著者は述べる(p. 77).

 

要するに,《種》に関する研究者間の対立は溝が深いことは確かなのだが,互いにコミュニケーションできないほど深刻ではない.それだからこそ,かえって《種》への “愛” は苦しみを乗り越えて —— それに殉じるほどではないにせよ —— いつまでも永続するのではないかとワタクシはつい考えてしまうのだが,著者が賛同してくれるかどうかはさだかではない.

 

第3章「「よい種」とは何か」(pp. 79-156)は本書の中核をなす章であり,種問題を考える上できわめて示唆に富む.本章のキーワードは「二重過程説」だ.著者は次のように説明する:

 

「この説によると,ヒトは多くの場面で心理学的に異なる認知プロセスを働かせている.二重過程説はこれらのプロセスがおそらくもっている特徴を列挙する.第一のプロセス(システム1)は暗黙的で自動的なプロセスであり,第二のプロセス(システム2)は明示的でコントロールを受けたプロセスである」(p. 81)

 

この二重過程説は複数の研究者が収斂的に提唱していて,著者が挙げる典拠の一つであるシーモア・エプスタインの「経験的システム/理性的システム」(p. 84)はワタクシの『思考の体系学』(2017)や『統計思考の世界』(2018)で言及している.

 

この暗黙的・直感的な「システム1」と理性的・熟慮的な「システム2」が種問題とどのように関わってくるのか.著者は分類学者たちは《種》に関して「透明性の幻想」(p. 94)をたびたび経験していると言う.

 

「研究者たちは,生物学者分類学者が,自分たちは種が何であるかを理解していると信じているのに,いざそれを定義することを求められると途方に暮れることを見つけてきた.これを「透明性の幻想(elusive transparency)」と呼ぼう.生物学者は種の本性は明らか(transparent)だと考えるかもしれないが,実際は非常にとらえどころがなく(elusive),種という概念を明晰化して広い範囲で普遍的な同意を得ることも難しいのである」(p. 95)

 

つまり,《種》の議論においては,実践的なシステム1での《種》の直感的な認知と論争的なシステム2での合理的な考察とが別々に切り別れている(p. 97).確かにこの考え方はワタクシ的にはよく納得できる.システム1での《種》の特性を知るために著者は「よい種(good species)」というキーワードを手がかりにして,体系学メーリングリストである〈Taxacom〉の過去ログを検索することで,「よい種」がもつべき特徴をリスト化し,認知心理学における「プロトタイプ効果」(p. 124)と結びつけて考察する.

 

ワタクシが理解するかぎりでは,《種》をめぐるシステム1/システム2は次のようにまとめられる:

システム1=定義を介さない=プロトタイピング=暗黙モード

システム2=定義に依拠する=情報処理推論=明示モード

 

うん,よくわかるよくわかる.

 

最後の第4章「「投げ捨てられることもあるはしご」としての種」(pp. 157-212)は,種タクソンの集合である種カテゴリーをさらに包括するメタ・カテゴリーとしての「一般種概念」を提唱する.この一般種概念をベースにして,種カテゴリー,さらには種タクソンと続く “はしご” を著者は想定する.そして,分類研究において,分類学者は必要に応じてケースバイケースでこの “はしご” を上がったり下がったりするというイメージを提示する.この説明はいったいどの程度有効なのだろうか.ワタクシ的には分類学者を問い詰めて訊いてみたい気がしている.

 

すでに手垢まみれの《種》の論議に新たな光を当てた本書は,生物学と科学哲学の両方で幅広い潜在読者層があるだろうと予想する.個人的には注の中に埋もれてしまった「心理的本質主義(psychological essentialism)」(第3章注60, p. 233; 第4章注3, p. 235)とか「恒常的性質クラスター説(HPC説)」と「自然種(natural kind)」(第4章注24, p. 238)についての著者の考察ももっと聞きたいところだった.

 

《種》に関する論議をコミュニケーションの観点から論じるという本書の基本姿勢は,種論争の動きと流れを研究者個人個人ではなく研究者コミュニティーから見直そうとする.研究現場との “距離感” の取り方はいかにも科学哲学者らしい.現場にあまり深くはまりこんでしまうとかえって見えなくなることも,少し離れれば全貌が見えてくるだろう.

 

これまで提唱された種概念を数え上げれば確かに20を越える数になる.しかし,それらの種概念の単なるリスト化は,それぞれの種概念が生まれた当時の研究者コミュニティーの動態と深く関わり,その中に埋め込まれながら変容を遂げてきたはずだ.たとえば,生物学的種概念ひとつをとっても,単に生殖隔離に基づく《種》カテゴリーというだけでは,なぜエルンスト・マイヤーがあれほど生物学的種概念にこだわったのかは見えなくなるだろう.1940年代の進化的総合(the Evolutionary Synthesis)という大きな歴史的イベントの中で,並み居る遺伝学者たちに対抗するため,「ナチュラリスト的伝統」を高く掲げる必要があったマイヤーにとって生物学的種概念は格好の “武器” となったことはまちがいない.

 

もう一つ例を上げるならば,1970〜80年代に体系学コミュニティーを制圧した分岐学派の産物の一つが系統学的種概念であることは明らかだろう.もう30年も前の1990年代,分岐学的な意味での単系統群(クレード)に基づく系統学的種概念が産声をあげた.その後,《種》のみならず,分類体系そのものの系統学的な再構築を目指す「系統分類学(phylogenetic taxonomy)」の理念が,現在の「国際系統命名規約(PhyloCode)」の運動につながっている.しかし,先日届いたばかりの『PhyloCode version 6』(Cantino and de Queiroz 2020)をながめる限り,今なお《種》の扱いはどっちつかずの不安定さが際立つ.初期バージョンの PhyloCode では《種》は捨てることになっていたと記憶している.

 

ひとつひとつの種概念はそれが生まれた歴史的事情を背負っている.分類学者たちのコミュニケーションに着目した本書を手に取るとき,現在まで《種》が生きながらえてきたとらえどころのない “空気” をワタクシはよりいっそう強く感じる.

 

三中信宏(2021年1月20日公開|2021年1月21日加筆)

引用文献

Philip D. Cantino and Kevin de Queiroz 2020. International Code of Phylogenetic Nomenclature (PhyloCode). CRC Press, Boca Raton.

 

[付記:2021年1月22日]本書刊行記念イベントとして:網谷祐一×岡西政典×三中信宏「種(しゅ)」に交われば明るくなる!~生物学者のタテマエとホンネに科学哲学者が迫る~」『種を語ること、定義すること』(勁草書房)刊行記念〉 2021年1月20日(水)20:00~22:00 本屋 B&B(Zoomウェビナー)が開催された.