『情熱の女流「昆虫画家」:メーリアン波乱万丈の生涯』

中野京子

(2002年01月25日刊行,講談社,4 pl.+237 pp.,本体価格1,900円,ISBN:4062111160



【書評】

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昆虫学と昆虫画の黎明期に光を当てているが,裾野の広がりに乏しいのが惜しい

17世紀の「本の都」フランクフルトの大出版業者の娘に生まれたマリア・シビラ・メーリアン(1647-1717)は,幼少時から動植物の画才を発揮し,さまざまな逸話を残したという.結婚後は,放蕩に耽る夫を横目に,ニュルンベルクで出版業をひとりで切り盛りする.後に,夫から逃れるため,オランダの中の「異国」フリースラントの宗教コミュニティに身を潜めた縁で,南米の蘭領スリナム渡航する機会を得ることになる.そして,帰国後,後世に残る『スリナム産昆虫の変態』という彩色図譜をアムステルダムで出版する —— タイトルにある通り,「波乱万丈」の人生を送った女性である.

本書は,日本ではこれまでほとんど知られていない,メーリアンの生涯を彼女がたどった足跡を追いながら描いていく.著者の思い入れも随所に見られ,物故して3世紀が過ぎようというこの昆虫学者・昆虫画家の経歴が21世紀に生き生きと再現されているように感じた.

確かに新鮮な内容の伝記なのだが,不満も残る.著者はメーリアンに密着しすぎていて,彼女が置かれていた当時の学問的あるいは文化的状況が読者に伝わってこないような気がする.メーリアンがスリナムに渡った頃は,いわゆる「探検博物学」全盛の頃であり,異郷の動植物への関心が社会的に高かった時代と重なる.しかも,当時のオランダはその黄金時代末期にあり,経済的にも文化的にも探検博物学の成果を受け入れる素地は(ドイツに比べて)十分にあっただろう.

また,ゲーテがメーリアンに着目したのは,彼女のメタモルフォーゼ(変態)の観点がゲーテ自身のロマン主義的進化観に相通じるものがあったのだろう.また,ナボコフがその自伝(『ナボコフ自伝』)の中で幼少時にメーリアンの図譜に強い感銘を受けたと語っているが,それは,後年になって,南米のシジミチョウの専門家としての彼の経歴と深く関わっているだろう(『ロリータ』の著者である以前に).

メーリアンの業績の裾野は,予想以上に広がりをもっていたのだと私は推察する.今回のメーリアン伝がこのような周辺にまで視野を広げていたとしたら,もっと資料的価値のある,そして膨らみのある伝記になったのではないかと惜しまれる.

三中信宏(20 November 2002)