『A Rum Affair: A True Story of Botanical Fraud』

Karl Sabbagh

(1999年刊行,Farrar, Straus and Giroux, New York, viii+276 pp., ISBN:0374252823目次

ガの「工業暗化」に関する「重金属説」を唱えたイギリスの植物学者 John W. Heslop Harrison をめぐる植物学での「データ捏造事件」の顛末.

【書評】※Copyright 2003 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved



スコットランド西部のヘブリディーズ諸島に属するラム島は,手つかずの自然が残された孤島で,現在では自然遺産として保全されている.本書は,このラム島をめぐる植物地理学上の「でっちあげ」事件を追及した本である.高名な植物学者 John W. Heslop Harrison(オオシモフリエダシャクの工業暗化現象を自然淘汰による説明に真っ向から対抗する「重金属汚染説」によって説明しようとしたことでも名を売った)が1940年代はじめにラム島では未発見だったある植物を「発見」したと発表した.


しかし,Heslop Harrison の「発見」が実は「でっちあげ」(他所から移植されたもの)ではないかと疑ったのは,アマチュアナチュラリストでもあった若き古典学者 John Raven だった.Raven は実際にラム島に探査旅行を行ない,その長文の報告レポートでは Harrison の行為があばかれていた.しかし,当時のイギリス植物学界の錯綜した人間関係の中で,決着はうやむやにされてしまう.


著者は,この事件の真相を解明すべく,存命中の関係者(イギリス進化学に連なる多くの著名研究者も含まれる)へのインタビューを含む,広範な調査を行なった上で,Heslop Harrison の「でっちあげ」行為とその背景を本書で明らかにしようとした.


貧しい家庭の出自ながらたたき上げでプロの植物分類学者となった Harrison と古典学という畑違いの専門をもちつつ,父親譲りのアマチュアナチュラリストである John Raven との公私にわたる「対決」が本書の山場を構成している.しかし,単に個人間のいさかいだけにこの「事件」のもつ意味を限定するわけにはいかない.植物分類学・植物地理学の上で Harrison と長年にわたって戦い続けてきたプロの植物学者たち(Alfred Willmot,Maybud Capmbellら)が伏線を張り,最終的に Raven による Harrison の「でっち上げ」の告発は Nature 誌に掲載される結末となった.


しかし,Harrison は何一つ動ずることなく,Raven に対して反撃の手を緩めず,むしろラム島に「勝手に侵入」して,大切なフィールドを「荒らした」と論難し続ける.そして,Harrisonの一族(息子も娘婿も植物学者)は一丸となって防御戦をはりめぐらした.半世紀もの間,この【ラム島事件】が封印されてきた背景には,個人的な人間関係だけでなく,イギリスの学会事情,アマとプロの壁,当時の社会的な階級制度,王立協会(Royal Society)会員の地位の高さなど複数の要因が絡んでいたと著者は指摘する.


科学史上の人間臭いエピソードと言ってしまえばそれまでだが,誰が見ても明らかに「詐欺的行為」であることが判明した後,なお長年にわたってしらを切り続け,論敵を叩き続けた Heslop Harrison の精神的内面の冥さに慄然としないわけにはいかない.性格的にエキセントリックさがやや度を過ぎていたという誤差範囲にはおさまっていない気がする.


Heslop Harrison の工業暗化に関する「重金属汚染説」についても,ラム島事件と同様の「データ捏造」によるでっち上げがあったと疑われている(p.191).いくら反復再試験しても同じ結果が得られない(p.200)というごく根幹的な部分で Harrison の「業績」は疑惑に包まれている.〈Nullius in verba〉という王立協会の「家訓」はそのまま Harrison に適用されるべきだったのだろう.総括として著者は言う:「J.W. Heslop Harrison教授は,もはやそのデータと結果が信用に足らないような行為を科学的研究と称して手がけるまでになった人間だった」(p.219).


たいへん印象深い本である.Heslop Harrison の息子である J. Heslop Harrison の教科書は『植物の分類:実験分類学からのアプローチ 』は1973年に日本語に訳されている.また,仇敵 Raven の父 Charles Raven もまた古典学者であり,John Ray の大きな伝記『John Ray, Naturalist』(1942)を著わしている.その他,スコットランドの生物相絡みの話では Vero Wynne-Edwards も関係者として登場;ラム島のアカジカの研究を長年にわたって続けている Tim Clutton-Brock は John Raven の友人;科学史家 Nick Jardine もまた旧友のひとり;John Maynard Smith も思わぬところで登場する.


三中信宏(29 August 2003)