『Making Prehistory: Historical Science and the Scientific Realism Debate』

Derek Turner

(2007年7月刊行,Cambridge University Press[Cambridge Studies in Philosophy and Biology], Cambridge, xiv+223 pp., ISBN:9780521875202 [hbk] → 目次版元ページ

「古生物学の哲学」とでも呼ぶべき本書の射程は,もっとひろく歴史科学一般に敷衍できる内容を含んでいる.これらの学問分野の「科学」としてのあり方を考える上で参考になる.たまたま先日読んだ稲葉振一郎さんの記事:インタラクティヴ読書ノート別館の別館「唯一無二の存在・出来事についての科学」および「シノドス・セミナー「社会学の居場所」」(2011年10月16日)が,「社会学」に関して同じような問題に言及していた.偶然のこととはいえたいへん興味深い.

長文の記事である「シノドスセミナー「社会学の居場所」」の中の一節「社会学の居場所」で,社会学の“科学”としての地位に関して(「人文学と科学との間に引き裂かれる位置」にあるかもしれないと示唆しつつ),稲葉さんは次のような問題提起をしている:

人文学の中心的な問題関心は何か。人文学は工学が既知の法則を前提とし、科学が未知の法則の発見を目指すのに対して、いわば人文学は法則そのものの多様性について知ろうとします。ただし、ここで考える多様性とは、未来をも含むわけですが、有意味な未来の予測は「工学」的にしか、つまりは一定の法則の不変性を仮定しない限りできません。それゆえ、未来における法則そのものの変化については、考えることさえできない。そうすると人文学は歴史的探究になるしかない。やることは過去に回顧的に遡ることのみ、ということになります。



科学とか工学というのは非常にある限定された前提を置いて、その前提の範囲内で一所懸命、あるポイントに集中して、他のことはあきらめてなされる、非常に禁欲的な営みです。社会学のめざすところは、そういう禁欲の枠を踏み破ってしまう。だから、結果的には不可能で子どもじみている。では、子どもじみないやり方で追究するとどうなるかというと、過去へ過去へと遡っていく。前もって未来を予測することはできないが、過去を理解することはできるという、過去の側へのみひたすら視点を向ける、こういうやり方ならば、メタ法則というものの探求には意味がある、法則の法則とか、社会構造の変化というものを研究することには意味があるだろう、場合によっては一般理論みたいなものだってつくれるかもしれない。でも、普通の意味でサイエンスがめざしたような、というか、未来を予想できるようなタイプの法則性というものには到達できないでしょう。

未来予測的な科学(工学)が一方にあり,過去理解的な「人文学」が他方にある.では,社会学はいかなるスタンスを取るべきかというのが稲葉さんの問題提起である.この文脈でワタクシが登場する:

でも「それは結局、生物の進化の研究においても同じことではないか」という疑問が返ってきそうです。だから、逆に言うと「進化生物学とは実は歴史学なのだ」と言うことも、できそうな気がする。これは日本では、三中信宏さんのテーマです。彼によれば、生物学というのはもちろん歴史科学です。ただそれでも「科学」ではある。彼の考え方は、普通にわれわれが考える科学、法則定立科学とは少し別のタイプの「科学」がありうる、というものです。歴史学でありつつ、しかしヒューマニティーズでもない別の「科学」があり得る、と言っておられます。過去の考えられるいろんな、たとえば生物の進化の歴史の中で考え得る複数の系統樹の候補があって、どの系統樹が一番もっともらしいかということを考えるために統計的推論をするとか。過去に一つしかないオリジナルな現象を、しかしそのあり得るバリエーションを可能性の中に位置づけ、あり得る可能性との関係で法則定立的に、確率論的に一番ありそうな、尤度の高い可能性を抉り出していく。一種の法則科学的なアプローチを唯一の出来事に対して行うという、一つの考え方を提出しておられて。非常におもしろいと思っています。ただ、社会的な領域における歴史研究にそれがどのぐらい役に立つのか、まだちょっとよくわからない。

進化学や系統学は正しい意味で「歴史学」であるとワタクシは考えているので,科学をむしろ“こちら側”に引き寄せて,歴史学的あるいは人文学的なサイエンスは可能だろうという立場をずっと標榜してきた.記憶をたどると,ワタクシが「nomothetische Wissenschaften(法則定立的科学)」 対「idiographische Wissenschaften(個別記載的科学)」という対語を最初に見たのは,Stephen Jay Gould の四半世紀前の論文:The promise of paleobiology as a nomothetic, evolutionary discipline. Paleobiology, 6(1): 96-118 だった. 1970年代〜80年代当時のグールドは,きっと稲葉さんと同じように,古生物学の学問としての位置づけ,すなわち「nomothetisch oder idiographisch」をめぐって奮闘していたのだろう.

Derek Turner は本書の中で,彼の言う「先史学(prehistory)」の学問的地位に関しては,物理学や化学のような実験系科学(かつ一般化科学)のそれと比較したとき,「Epistemic disadvantage, equal scientific status」(p. 6)というスローガンを掲げるべきだと言う.実験したり観察したりできないという点で認識的に「不利」であることは否定できない.しかし,だからといって,科学として二流と呼ばれる筋合いはないというスタンスだ.確かにそう思う.

余談だが,一世紀も前の Wilhelm Windelband が提唱したこの古めかしい「nomothetische oder idiographische Wissenschaften」という対置はそろそろアップデートしたいなあとつねづね考えている.William Whewell の「古因科学(palaetiological sciences)」(『The Philosophy of the Inductive Sciences, Founded upon their History. Two volumes』1840, John W. Parker, London.)もいい候補ではあるのだが,いったん死んでしまった言葉だし.今のところは,Karl R. Popper の「一般化科学(generalizing sciences)」(『開かれた社会とその敵・第二部. 予言の大潮:ヘーゲル,マルクスとその余波』1980, 未來社,東京)に対する Avezier Tucker の「歴史記述科学(historiographic sciences)」(『Our Knowledge of the Past : A Philosophy of Historiography』2004, Cambridge University Press, Cambridge)が個人的にはお気に入りのアップデートだが,もっといいものがあるかもしれない.