『文系と理系はなぜ分かれたのか』書評

隠岐さや香
(2018年8月24日刊行,星海社星海社新書・137],東京, 253 pp., 本体価格980円, ISBN:9784065123843版元ページ

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「文系 vs. 理系」分類から見た科学の過去・現在・未来

身の回りの日常会話でふだん交わされるような「文系」対「理系」の区別は,もともと分類が大好きな日本人にとっては,ほとんど “血液型人間学” のように広く深く染みわたっている.本書は,この空気のように当たり前で,それゆえ意識されることのない「文理」の分類に科学史科学技術社会論の観点から切り込んでいく.



第1章「文系と理系はいつどのように分かれたか?—— 欧米諸国の場合」は,欧米における文系/理系の学問分類の起源を中世までたどり,もともとは単一だった学問技芸の世界がどのように分化していったかを振り返る.自然科学と工学が比較的早く分化したのに対し,人文社会科学はもっと後代になって分かれたという指摘は興味深い.いわゆる理系の分野が錬金術や自然魔術の後継としてより早い時代に自立していったことは納得できる.それに対して,もっと古い時代からあったはずの法学や哲学が近代的な分野として独立するようになるまでには錯綜した経緯があると著者は言う.経済学を含む社会科学にいたっては18世紀後半になってやっと近代化の胎動が始まったそうだ.19世紀になるとさまざまな思想家が「学問分類体系」を提唱することになるが,本章の後半では,文系と理系の学問分野が時代によっても国によっても微妙に異なる分類のされ方を経てきたと述べられている.



第1章の末尾(pp. 73-75)には,本書全体にとって大きな意味がある指摘がなされている.西洋科学のたどった歴史を見ると,文理の分類は必ずしも明確になされてきたわけではないと結論した上で,著者は次のように述べる:

「確かに、「人文社会」「理工医」の二つに分ける区別は絶対ではない。しかし、諸学は一つとも言えない。そこには少なくとも、二つの違う立場が存在するのではないか、と思うからです。」(p. 73)

では,著者の言う「二つの違う立場」とは何か.

「一つは「神の似姿である人間を世界の中心とみなす自然観」から距離を取るという方向性です。それは、人間の五感や感情からなるべく距離を置き、器具や数字、万人が共有できる形式的な論理を使うことで可能になりました。文字通り、「客観的に」物事を捉えようとしたわけです。その結果、たとえば地球は宇宙の中心ではないし、人間は他の動物に対して特別な存在でもないという自然観につながりました。」(p. 74)



「もう一つは、神(と王)を中心とする世界秩序から離れ、人間中心の世界秩序を追い求める方向性です。すなわち、天上の権威に判断の根拠を求めるのではなく、人間の基準でものごとの善し悪しを捉え、人間の力で主体的に状況を変えようとするのです。その結果、たとえば、この世の身分秩序を「神が定めたもの」と受け入れるのではなく、対等な人間同士が社会の中でどう振る舞うべきかをさぐったり、人間にとっての価値や意味を考えたりするための諸分野がうまれました。」(p. 74)



「すなわち、前者にとって、「人間」はバイアスの源ですが、後者にとって「人間」は価値の源泉であるわけです。」(p. 74)

この二つの立場のちがいが文理の区別に大まかに対応していると著者はみなしている:

「断言はできませんが、どちらかといえば、前者は理工系、後者は人文社会系に特徴的な態度といえるでしょう。もちろん、経済学の幾つかの学派や、医学のように、どちらともいえない分野もあります。」(p. 75)

主体としての人間を突き放すかそれとも引き寄せるかという正反対のベクトルが,二つの異なる学問群を規定しているという著者の見解はとても興味深いし,納得できる.



続く第2章「日本の近代化と文系・理系」は,日本の歴史における学問の歴史と文理の区別について論じているが,主として江戸時代以降の近世から現代に連なる科学研究の制度論・組織論を中心に書かれている.第3章「産業界と文系・理系」,現代社会に占める科学の位置と地位,そして文系/理系の別が学問的あるいは職業的なキャリア形成に及ぼす影響を考察する.さらに第4章「ジェンダーと文系・理系」では男女のジェンダー論を踏まえて,科学との関わり方がジェンダーによってどのように異なるのかを論じる.これら三つの章は読む人が読めばおもしろいかもしれない.



最後の第5章「研究の「学際化」と文系・理系」は,ふたたび本論に戻り,第1章の問題提起を受けてさらに議論が展開されている.この章では,いままさに進行している科学の分野を超えた「学際化」を取り上げ,文理全体を含む既存の科学分野の “境界” は今後どのように変遷するのかを議論する.著者の提示する科学の「多元論」と「一元論」はここで示しておく必要があるだろう.

「ひょっとしたら私たちが「自然科学」と捉えているものすら,実は全く統一性のない,バラバラのものではないか,単に歴史的な偶然により一つのカテゴリーにまとめられているだけではないか,という疑いです.これを「自然科学の多元論」と呼びましょう」(p. 214)



「同時に面白いのは,仮に「自然科学は多元的」であるとしたら,人文社会科学との差は一層縮まるのではないかとの主張も成り立つことです.すなわち,逆説的にも,「自然科学の多元論」は,「文系・理系もふくめ,バラバラの諸学がゆるくつながって一つである」とする「科学の(ゆるい)一元論」と相性がよいのです.この問題は今でもはっきりとは答えが出ていません.」(p. 215)

著者がここで提示する「自然科学の多元論」と「科学全体の一元論」は視点のフォーカスの深さによって整合性があるとワタクシは考える.しかし,それ以上に重要な点は,もし著者の指摘する点が説得力をもつとしたら,ある科学を区切る “壁” もまた実質的に存在しなくなり,複数の学問分野にまたがって共有された問題を共通の統一的視点でアプローチするという自由な道が拓けるだろう.科学が多元的かそれとも一元的かという以前に,個々の科学を区切る “仕切り” そのものが消えていくという考え方だ.



けれども,著者は科学間の “学際化” という名の融合に全面的に与しているわけではない.むしろ,そのスローガンが内包する先入観や政治性に言及しつつ,異なる前提をもつ複数の研究分野が共存することに意味があると主張する.

「私たちはバイアスのかかったやり方でしか世の中を見ることはできませんが,諸分野の方法というのは,地域や文化を超えて人々が選び取ってきた,いわば,体系性のあるバイアスです.体系的なやり方で,違う風景を見て,それを継ぎ合わせる.または違う主張を行いながらも,それを多声音楽のように不協和音を込みで重ね合わせていく.そのことにこそ,様々な分野が存在する本当の意義があるのではないでしょうか」(pp. 233-234)

もし著者の言うように “みんなちがって,みんないい” のであれば,ある(バイアスのある)体系を批判的に検討する余地はどのようにすれば確保できるのかという問題が浮上するだろう.本章の最後の部分では,社会生物学を例に取り,伝統的な人文社会科学の人間観への “生物学的” な批判について言及がある.この問題意識はのちの人間進化生物学にも継承されていることを私たちは知っている.多様な学問分野があっていいのであれば,分野間の相互協力のみならず科学的な(「政治的な」ではなく)相互批判も担保される必要があるだろう.



本書全体として,著者の基本スタンスは,性急な結論を急ぐわけではなく,一方的な見解だけを押し付けることもなく,さまざまな情報ソースを踏まえた,よくも悪くも “両論併記” の立場を堅持しているようだ(各章末に付されている出典リストは多岐にわたる).だから,誰にもわかりやすい白黒がはっきりした結論を期待した読者はきっと肩透かしを食わされるにちがいない.



本書は読者の耳目を集めるにちがいない書名に惑わされてはいけないタイプの本である.ワタクシが読み取ったかぎりでは,もう少し著者なりの主張を強く出してもよかったのではないかと思うが,どうもその点ではガードが硬いような気がした.本書を契機としてさらなる論議が展開されることを期待する.



かつての金森修だったら,こういうテーマに関してはもっともっと強く自説を押し出してきただろうなとふと遠い眼差しになってしまった.



三中信宏(2018年9月13日)