『日本の著作権はなぜこんなに厳しいのか』

山田奨治

(2011年9月20日刊行,人文書院,京都,228 pp., 本体価格2,400円,ISBN:9784409240922目次版元ページ著者ブログ

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ミカエルの天秤は4分33秒沈黙する

いま話題の本.前半第1〜3章は,日本における著作権の法的な扱われ方(とくにそのきわだった「厳罰主義」の傾向)が,どのような“動力学”の中で決まっていったかを,諸外国との比較のもとに明快に論じている.続く第4章では,著作権に関わる法律の策定を方向付けた委員会の議事録を詳しく読み解きながら,著作権に関わる団体や業界の“動力学”のメカニズムをたどっている.長大な章だがとても興味深い.第5章では一転して,海外の水面下で広く流通している「海賊版」に焦点を当て,その功罪を論じる.「罪」だけではなく,「功」にも光を当てている点が目を引く.最後の第6章は全体の総括である.



現行の著作権法に対する著者の問題提起はとても明確である:


法治国家である以上,法を守ることは必要である.しかしそれと同時につぎのようなことを,常に問いつづけるべきである —— この法は公平なものか,法を定めた過程に間違いはなかったか,特定の勢力を必要以上に利するものではないか,と.(第1章「パクリはミカエルの天秤を傾けるか?」,p. 22)



第2章「それは権利の侵害です!?」では,「ひこにゃん」,「キャンディ♥キャンディ」,そして「宇宙戦艦ヤマト」など身近な事例を挙げながら,著作権の“侵害”が予想もしないかたちで身にふりかかる危険性(被害と加害の両方の意味で)を指摘する.この錯綜した権利関係のがんじがらめが現実であることを指摘する著者は,続く章でその成立を時間的にたどる作業に着手する.



第3章「法律を変えるひとびと」では,著作権法をつくってきた文化審議会著作権分科会の過去十年間にわたる活動を洗いなおし,どのような出自の委員たちがこの分科会を動かしてきたのかを探る.政府の委員会の議事録を読み解くというアプローチがどのような事実を解明できたかがポイントだ.続く第4章「ダウンロード違法化はどのようにして決まったのか」では,さらに詳細なケーススタディーとして,ダウンロード違法化という著作権法の改訂過程をたどる.本章の時系列的な叙述を読むと,委員会の議事録から逆に委員会でのやりとりを復元しているような印象を受ける.



第5章「海外の海賊版ソフトを考える」で説明されている海賊版の制作方法の詳細はかなりテクニカルである.むしろ,そのようにして大量につくられた海賊版が果たした意外な「効用」を著者は指摘しているのが興味深い:


確かに,日本の権利者は海賊版によって利潤最大化モデルが壊されることを嫌って,日本以外のアジア市場でのコンテンツ販売を避けてきた.その隙間を縫うように,日本製コンテンツの海賊版がアジアに蔓延した.それによって日本の権利者は経済的な打撃を受けただろうか? 現実はまったく逆である.海賊版によって日本製コンテンツへの需要が生まれ,それまで存在しなかった市場があらわれた.つまり,固定された市場サイズを前提にした単純なモデルでは海賊版が果たす経済的な役割を説明できないのである.海賊版には市場の創出・拡大という,経済学的にも見逃せない効用がある.しかし,海賊版撲滅を口にする権利者が,その効用を語ることはない.(p. 180)



“不法”な海賊版の蔓延による“経済的損失”を言い立てる著作権権利者が,積極的に著作権法を“改正”してきた経緯を論じてきた著者は,最後の第6章「著作権秩序はどう構築されるべきか」で,彼らの行動特性を次のように要約する:


権利者らの行動をみると,「被害の過大な見積もり」「強い保護だけ横並び」「権利を主張しないと損をするかもという疑心暗鬼」というみっつの傾向が観察される.(p. 200)



そのような権利者たちによる高圧的な「著作権保護キャンペーン」にまんまと乗せられてしまう前に,その“運動”の背景と動機が何なのかを問いかけるだけの冷静さと著作権リテラシーが“市民”側に必要だと著者は結ぶ.



しばらく前のことだが,著作権法が厳しくなったときに,「4分33秒,沈黙していたら JASRAC著作権料を徴収に飛んで来るぞ」と冗談を言い合ったときがあった.本書を読めば,それがあながち誇張ではないことを読者は痛感するだろう.日本の〈ミカエルの天秤〉はそれくらいバイアスがかかっているということだ.



三中信宏(2011年11月5日)