『The Natural Science of the Human Species: An Introduction to Comparative Behavioral Research — The "Russian Manuscript" (1944-1948)』

Konrad Lorenz[Edited by Agnes von Cranach]

(1996年,The MIT Press,Massachusetts, xliv+337 pp., ISBN:0262121905[hbk])

【書評】

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比較行動学前史−コンラート・ローレンツ「ロシア草稿」の英訳出版

行動学者コンラート・ローレンツ(1903-1989)が、第2次大戦で戦争捕虜としてソビエトに抑留されていた頃に(1944-1948)、収容所内で書いた比較行動学教科書の手書き原稿(通称「ロシア草稿」)約750枚は、1960年代始めに紛失し、その後30年間近く所在不明でした。しかし、ローレンツの死後すぐにこの「ロシア草稿」は1973年付の古新聞の束の中から再発見され(1990年12月)、1992年に復刻出版されました:

Lorenz, Konrad 1992. Die Naturwissenschaft vom Menschen: eine Einfuehrung in die vergleichende Verhaltensforschung - Das "Russische Manuskript" (1944-1948). Herausgegeben von Agnes von Cranach, R. Piper, München.

さて、すでに Nature 誌でも書評されているので(Krebs 1996)ご存じの方もいるでしょうが、この「ロシア草稿」の英訳がこのたび出版されました。上記 Krebs の書評を見ると、本書はローレンツの初期のカント哲学研究が主であるような先入観を抱きますが(実際、Krebs の書評を読んで、私は「お買い物メモ」から本書を外していたのです)、実物を手に取ってみると大ちがい。カント哲学を論じているのは、最初の80ページだけで、残り200ページ余は比較行動研究のための方法論の本であることが判明しました。いったい、Krebs はどうしてこんなバイアスのかかった書評を書いたのだろーか? ソープはソープで(Thorpe 1979, 訳書, p. 91):

しかし[ロシア草稿の]書き直しはあまりにたいへんで、不幸なことに(いや幸運なことと言うべきかもしれないが)日の目を見なかった。

なんて書いています。



イギリス行動学派からの「冷遇」はともかく、このロシア草稿は、進化生態学における比較法(現代的意味での)に携わる研究者にとって、きっと不可欠の文献であることは確実です。それだけでなく、分岐学(cladistics)の理論的発展を知りたい体系学者にとっても、「こ、これは!」という内容がゾロゾロ。一言で言えば、

コンラート・ローレンツは、1940年代初頭の時点で、共有派生形質に基づく系統推定と、推定された系統樹上での行動形質の復元を行なっていた

ということ。比較大好き人間のきみ、そして分岐いのちのあなた、ほうらほらだんだん読みたくなってきたでしょ?



目次をざっと紹介しておきます。

Part One:比較行動研究序論

第1部:哲学的序論(pp.1-80)=1−4章

第2部:生物学的序論(pp.81-176)=5−9章

第3部:比較行動研究の歴史的由来と諸方法(pp.177-315)=10−23章

最初の構想では、ローレンツは本書全体を序論部分とする比較行動学の著作を計画していたそうですが、哲学部分は『鏡の背面』(最近、新思索社から1巻本で再版された)、方法論部分は Lorenz (1981) として後に出版されました。そして、これらの諸著作の出発点となったのが、今回出版された「ロシア草稿」です。



比較法と系統推定に話を限定します。ローレンツの最も有名なガン・カモ類の比較行動研究(Lorenz 1941, 1953)に出てくる系統樹(たとえば、Lorenz 1953: 90-91)は、明らかに派生的形質状態の共有に基づく系統樹です。同様の系統樹脊椎動物全体の系統樹)は、Lorenz (1981) の第4章(「比較法」The comparative method)の p.75, Fig.6 にもありますが、「ロシア草稿」にその手書き原図(Lorenz 1996: 107, Fig.2)があることから、少なくとも1940年代の時点でこの系統推定法を思いついていたことが示唆されます。ちなみに、Willi Hennig が形質状態の原始性・派生性について論じ始めたのは、1949年以降のことです。



系統推定法を論じた、「生物の個別的歴史起源と系統学的アプローチ」というタイトルのこの第6章(Lorenz 1996: 99-135)では、形質の相同・収斂そして形質進化系列の原始性・派生性についての詳細な議論が展開されており、これはもうただごとではない! また、第3部では、ローレンツの系統学的アプローチの先駆を今世紀初頭の Charles Otis Whitman と Oskar Heinroth に求めており、この分野の生物学史が好きな人にはたまらないはず。



まとめますと、現在のイギリス行動学派からは冷たくあしらわれているようですが、ローレンツの「比較法」は、方法論として、明らかに今でもなお生命力を保っています。科学史的に見ても、今世紀前半のヨーロッパ大陸における系統学の形成を考える上で貴重な資料です。



Brooks and McLennan (1991: 5-8) は、今世紀前半に行動学が成立してきた過程では、ローレンツのいう系統学的アプローチが有力だったのに、その後この「歴史思考」がいかにして無視されるようになってきたかを論じています。まったく同じ時期に同じ場所では、分岐学的な方法論の育つ土壌が耕されてきました(Craw 1992: 68-77)。これらのことを考え合わせると、今日イギリス発とされている「比較法」の深層形成史が解明されるのではないでしょうか?



私の抱いた基本的疑問は以下の通り:

  1. イギリス行動学派は、ティンバーゲンの影響下で育ってきたはずだが、ローレンツの系統学的アプローチはどのように輸入されてきたのか? どうして、今のイギリス行動学派はローレンツに冷たいのか?
  2. 系統を冷遇(無視)していたはずの比較生態学は、今や「比較法」のオンパレード(?)だが、「集団的意識革命」により一挙に系統学的アプローチに鞍替えしたとみなしていいのか?
  3. 「意識革命」により走り始めたのはいいが、「内心やりたくないこと(系統論)」と「実はやりたいこと(適応論)」の狭間で、けっこうストレスがたまっているのではないか? 系統大好きな Brooks & McLennan とか Jim Carpenter みたいな、確信犯的クラディストにいまいちついていけないと彼らが思ってしまうのも、そのあたりに原因がある? 系統論が体の一部になり切っているローレンツに対する微妙な態度もそのせい?
  4. 日本だと、「ローレンツ」といえば、反射的に「ソロモンの指輪」に直結されてしまいます。行動学の「導師」的に扱われ、教科書も日本語訳されているティンバーゲンと比較すると、ローレンツの日本での扱いも興味深いですね。

いろいろ、考えさせてくれる本です。



参考文献

  • Brooks, D.R. and D.A. McLennan 1991. Phylogeny, ecology, and behavior: a research program in comparative biology. Univ. of Chicago Pr., Chicago, xii+434pp.
  • Craw, R.C. 1992. Margins of cladistics: identity, difference and place in the emergence of phylogenetic systematics, 1864-1975. Pp.65-107 in: Trees of life: essays in philosophy of biology. (Ed. by P. Griffiths) Kluwer Academic Publ., Dordrecht.
  • Krebs, John R. 1996. Chewing it over. Nature, 380(28 March 1996): 304.
  • Lorenz, K. 1941. Vergleichende Bewegungsstudien an Anatinen. Journal fuer Ornitologie, 89(Erganzungsband 3): 194-294.
  • Lorenz, K. 1953. Comparative studies on the behavour of Anatinae. Avicultural Magazine, 59: 80-91.
  • Lorenz, K.Z. 1981. The foundations of ethology. Translated by K.Z. Lorenz and R.W. Kickert. Springer-Verlag, New York, xviii+380pp. [独語原書:K. Lorenz 1978. Vergleichende Verhaltensforschung: Grundlagen der Ethologie. Springer-Verlag, Wien.]
  • Thorpe, W.H. 1979. The origins and rise of ethologie. Heinemann Educational Books, London. [小原嘉明・加藤義臣・柴坂寿子 共訳 1982. 動物行動学をきずいた人々. ライフサイエンス教養叢書6, 培風館, 東京]


三中信宏(17/June/1996)