『昭和ジャズ喫茶伝説』

平岡正明

(2005年10月7日刊行,平凡社ISBN:4582832725



おお,これは,1960〜70年代の学生運動とジャズとオーディオがきめ細かくミックスされたひと連なりのモノローグだ.『山口百恵は菩薩である』の著者はこんなことをしてきたのか.

ところどころに当時の東京の街並みの点景が載っていて,後期については場所的・時代的に共有できるものもないわけではない.しかし,この本の“正しい読者”は,きっとぼくよりも一世代か二世代,上のジェネレーションなのだろうと思う.個々のアイテムは共有できても,それらがつくる「全体」がぼくには体感的に理解できないから.互いにわかり合える世代の幅はきっと限られているのではないか.

それでも,探針にヒットすることはいくつもある.たとえば樺美智子が死んだ「1960年6月15日国会議事堂前」での実況ラジオ中継の生々しさ(p. 102)はそのひとつ.女の暦編集室(編)『姉妹たちよ! 女の暦2005』(2004年発行,ジョジョ企画)には,その当日まだ生きていたときの樺美智子の写真が載っている(9月のページ).そのうしろでは笑顔でスクラムを組む男子学生たち.国会議事堂前での写真だ.

もうひとつ,MJQ のジョン・ルイスについてはこう語られている:




ジョン・ルイスは,ノルマンディー上陸作戦に通信兵として参戦している.ということは,ドイツ軍の暗号やフランス地下抵抗運動のアングラ放送に聴き耳を立てている.ということは,もっぱら対独抵抗運動の放送局のために演奏されたジャンゴ・ラインハルトのジャズを,上陸作戦開始の日(Dデイ)を待機しながら軍艦の中でジョン・ルイスは聴いたのだろう.…… MJQ「ジャンゴ」という曲は,フランス地下放送からヴェルレーヌの詩が暗号として流れ,ジャンゴの演奏が流れるという,一九四五年六月六日ノルマンディー上陸をひかえた緊張と静寂の中で,海上に停泊した船舶の無線機でジョン・ルイスが聴いた,ジプシー・ジャズの九年後の再現ではなかったか.(p. 168)



ほほー,これは聴き直してみるしかないな.ジョン・ルイスといえば,高崎にあった〈酒房 一空〉 —— マスターの藤井さんのキャラクター,そしてあの店の雰囲気が味わえなくなったのは返す返すも残念だ.こういう喪失の追憶はきりがない.つくばにジョン・ルイスのトリオ&ミルト・ジャクソンが来たときは,ノバホールという大きな器の中で聴いた.演奏会前にノバホール下のそば屋でミルト・ジャクソンが蕎麦をたぐっていたが,そんな彼も,そして“校長先生”のようなジョン・ルイスももう亡くなってしまった.

著者の生まれた本郷から“谷根千”界隈にかけての懐古譚は,とりわけ味わいのある章だ.なじんだ店や人が周りからしだいになくなって(亡くなって)いく喪失感がにじむ.そして,それは共有できる感覚だ.このあたりは戦火に焼けていない一帯なので,町並みの変化はそれほど激しくはなかったが(バブル期は別として),それでもあった店や人がなくなった経験はひとつやふたつではない.個人的には千駄木の〈こけし〉や〈八十八〉がなくなった喪失感は大きかった.

この本で“カルティエラタン”と呼ばれている飯田橋・四谷から神保町にかけてのエリアは,別の意味で“アプレゲール”なぼくらの世代の感覚から見ても,なお確かに別の“言語”が話されていた地域だった.誰かに誘われて行ったのだと思うが,法政大学の講堂で開催された映画の夜間自主上映会に行ったことがある.山谷の労働争議ルポルタージュ映画だった.冒頭で,山谷で殺された活動家の死体が路上に放置されているシーンから始まったことが記憶に残っている.まるで映画〈カフェ・ブダペスト〉の闘争場面のようだった.上映後,主催者がマジに「“私服”に尾行される危険性がありますから,お帰りは用心して」と言っていたが,もうすでに“アプレゲール”な時代だった1970年代後半には(大学の知人の何人かは“三里塚”に参加していたのだが)とても場違いな響きをもっていた.あるいは当時の“カルティエラタン”ではそういう物言いがまだ生き残っていたということなのか.単にぼくが“ノンポリ”だったというだけのことか.