『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』(まとめて)

ウェンディ・ムーア[矢野真千子訳]

(2007年4月30日刊行, 河出書房新社ISBN:9784309204765目次

【書評】

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日経サイエンス誌から書評依頼あり.ちょうど買おうと思っていたところだったので,渡りに舟だ.ぼくは,ジョン・ハンター(John Hunter)自身についてはほとんど知らないのだが,彼が設立したハンテリアン博物館(The Hunterian Museum)の主だった解剖学者リチャード・オーウェン(Richard Owen)が「The Hunterian Lectures」と銘打った連続講義を1830年代に行なったことで間接的にハンターの名を覚えている.ジョン・ハンターは解剖学者にして外科医だったわけだが,そのような“手仕事”としての経験科学が彼が生きた18世紀のイングランドでどのような位置を占めていたかが読み取れれば,本書を手にした甲斐があるというものだ.



いま読んでいる山本義隆一六世紀文化革命(1)』(2007年4月16日刊行, みすず書房ISBN:9784622072867目次版元ページ)には,実験や観察という“手仕事”は15〜16世紀のヨーロッパ社会では低く見られていたが,その“低さ”は国によってちがいがあるようなことが書かれていた.上巻の200ページまでにかぎっては,イタリアやドイツ,フランスが主たる論議の対象で,イングランドスコットランドについてはほとんど触れられていなかった.



まずは第2章まで50ページほど読む.ジャーナリストらしい文体で,読み手を引き込む力がある.以下,書評を書くための備忘メモ:主人公ジョン・ハンター(1728〜1793)は,外科医にして解剖学者.彼は「ドリトル先生」のモデルであり,その住処は「ジキルとハイド」に描かれた舞台となった.ジョンとその兄ウィリアムはスコットランドからロンドンに上京し,中心部に外科医学校を開設し,のちに解剖学博物館(後のハンテリアン博物館)となる.実際に患者や死体を“切る”という仕事に携わる外科医は,文献中心主義の他の医者(本書では「内科医」と書かれている)と比べて,その社会的地位は低く,床屋-外科医はほぼ同義語だった.



ハンターの出身地がスコットランドというところがポイントだろう.ヨーロッパ大陸からの生物学・解剖学の思潮はイングランドではなく,北のスコットランドにまず根をおろしたからだ.しかし,スコットランドの大陸的な「哲学的博物学」の伝統はジョン・ハンターに明らかな刻印を刻んだと考えるのは早計だろう.ハンター自身は正規の教育からほとんどドロップアウトしていたし,何よりもスコットランド的な生物哲学(超越論的生命観)が枝葉を伸ばすのは19世紀に入ってからのことだからだ.スコットランドのこの学的伝統は,ハンターが死んだ年(1793年)に生を受けたロバート・ノックス(Robert Knox)をルーツとして19世紀前半に大発展したと言われている.とすると,ハンターは本人は自覚していなかっただろうが,結果的にこの伝統の先鞭を付けたことになるのかもしれない.



19世紀前半のスコットランドにおける“大陸的”生物学については,Philip F. Rehbock『The Philosophical Naturalists : Themes in Early Nineteenth-Century British Biology』(1983年刊行,University of Wisconsin Press, Madison, xvi+281pp.)に,また同時期のイングランドの動向については Adrian Desmond『The Politics of Evolution : Morphology, Medicine, and Reform in Radical London』(1989年刊行,The University of Chicago Press, Chicago, x+503pp.)に詳述されている.しかし,それよりもおよそ半世紀さかのぼったハンターの時代のイングランドあるいはスコットランドの生物学史について論じた本は多くはないと思う.エラズマス・ダーウィン(Erasmus Darwin)と時代を共有していたハンターに関するこの伝記は実はこの意味で貴重な資料なのだろう.



本書でややセンセーショナルに取り上げられている解剖用の「死体」をめぐる略奪や泥棒の話は,ハンターと同時代あるいはそれに続く世代の外科医たちには珍しいことではなかっただろう(ノックスも死体泥棒のいざこざに巻き込まれている).また,ハンター兄弟が公開解剖に用いたという「観客席つき手術室」は,大陸にあった「解剖学劇場(Theatrum anatomicum)」をそのままイギリスにもちこんだものと推測される.なお,種痘の予防接種法を確立したジェンナーはハンターの一番弟子だったそうだ.



本書を読み進むにつれて,主人公ジョン・ハンターが「元祖・解剖男」のように見えてくる.夜陰に乗じて人間の屍体を館に運び込んでは腑分けをする.老若男女を問わず,身分の貴賎を問わず,ひたすら解剖しつくす態度は,確かに現代人の目から見れば,彼がある種の“マッド・サイエンティスト”のように映ってもしかたがないところはあるだろう.しかし,1700年代という時代の文脈の中に置いたときには,それとはちがう位置付けができるのではないか.この伝記の著者は,主人公につねに焦点を当てつつ叙述をするという方針で書き進めているようだが,この主人公を不可避的にとりまいていた学問的・文化的・社会的・宗教的な状況についてもっと書いた方がよかったのではないだろうか.当時の医学の世界では,内科医>外科医というステイタスの上下があることは知っていたが,外科学と床屋とが決別した後は,さらに外科医>歯科医という新たな上下関係が生じたそうだ.ほかに,リンパ系をめぐる功績争いやら,“手仕事”のわざを盗んだ盗まれたの諍いなど.



それにしても,ハンターが行った外科手術のいくつかは想像するだけでも耐えられない.たとえば,彼が当時行ったという健常者からの歯の移植手術は,抜かれる方も植え付けられる方も苦痛の極みの“拷問”だったのだろう(本書で描かれる外科的な手術や治療はいずれも麻酔なしだった).



その後も,ジョン・ハンターの外科医としての治療や研究は順調に進んだ(経済的には破綻すれすれだったそうだが).自らを人体実験の俎上に乗せたというハンターの淋病・梅毒に関する研究は,後に『性病全書』(1786)としてまとめられ,この分野を基礎づけることになった(淋病=梅毒という誤った判断をしてはいるが).small pox(天然痘)の対語「great pox」が梅毒を指していたとは知らなかった(p. 171).それだけ広く蔓延していたのだろう.ヒトに対する人工授精の成功,帝王切開の実施など,さらには歯学研究での最初の学術論文を出し,偽薬(プラシボ)を用いた初の対照試験を行っている(p. 174:その割にはサンプルサイズに無頓着).



その一方で興味深いのは,ハンターが医学とともに一般的な博物学にもしだいに関心を広げていったという点だ.「存在の連鎖」につながれたり,前成説ではなく後成説を支持する見解を表明したりしたハンターがここにいる.彼の後半生はしだいに博物学への傾斜を強めていく.王立協会会員になってからは科学者コミュニティの中心的役割を果たした.大航海時代の探検博物学にも強い関心を示し,ジェイムズ・クック船長率いる船団に乗った盟友ジョセフ・バンクスからの異国の動植物の到来を待ちこがれる.考えてみれば,ジョン・ハンターはカール・フォン・リンネと同時代の人だ.生物分類に対する彼なりの観念(pp. 197ff.)もその時代精神の中で捉える必要があるだろう.なお,かの「ドリトル先生」のキャラクターはほかならないハンターがモデルになったと書かれている(p. 193).さまざまな意味で彼が当時のロンドンでの有名人だったことは間違いない.また,ハンター夫人のサロンには作曲家ハイドンも出入りしていたとのこと.



特筆すべきは兄ウィリアムズとの微妙な関係である.著者は:「ハンター兄弟は,一部重複しながらも異なった世界に属し続けていて,当時はそこそこの友好関係を保っていた」(p. 185)と書いている.しかし,王立協会の講演会の席上,ハンター兄弟はついに仲違いしてしまう.気性の激しいことで定評のあるふたりだけにその兄弟喧嘩は手のつけようがない.王室の御典医にもなったこの時期が壮年期のハンターにとって人生最高のときだったのだろう.しかし,多忙な生活の合間に狭心症の発作が起こったりする.



ジョン・ハンターの自然哲学について書かれた第15章がおもしろかった.長年にわたって彼が蒐集してきた動物の標本を展示する博物館をやっと開館したのだが,ハンターの博物館の特徴のその展示形式の「配列」にあったという.



ハンターいわく,これは当時の素人コレクターがよくやるような名品珍品のでたらめな配列ではなく,地球上の生き物の根本原則を説明するために慎重に配列した教材だということだった.(p. 309)



原書を確かめていないのだが,ここでいう「配列」が「arrangement」に対応する訳語であったとしたら,無色な語感とは裏腹にここではそうとう重要なことが述べられているはずだ.たとえば,チャールズ・ダーウィンの『Notebook C』(1838)にはこう書かれている:



We now know what is the natural arrangement, it is the classification of 〈arrangement〉 relationship; latter word meaning of descent.(155:p. 286)



実際,ハンターは1790年代には早くも生物の「descent」についての考察をめぐらしていたらしい:



ハンターはさらに,その変化に段階の跡,いまで言う進化の跡を見ようとしていた.「同一種におけるすべての品種を詳しく調べて,どの品種とどれだけ似ていてどれだけ離れているか,その距離を割り出していけば元祖の動物が確かめられるはずだ」と.(p. 318)



しかし,1793年,長年の持病だった心筋梗塞の発作により,彼が急死した後,実に70年もの間,彼の論考は公にされなかったそうだ.ハンターの最後の弟子であるウィリアム・クリフトは,ハンターの手になる大量の遺稿を苦労して管理した.そして,クリフトの娘と結婚し,ハンテリアン博物館を活動の場としたリチャード・オーウェンの編集によりジョン・ハンター論文集がようやく日の目を見たのは,『種の起源』が出版されてから2年後の1861年のことだった.



ジョン・ハンターは公私ともにお騒がせな人生を送ったが,生物学史の流れからもう一度見直すと,その思想と業績はたいへん興味深い.したがって,本書の「解説」は場違いだったね.もうひとつ,邦訳書によくあることだが,本書もまた注と索引が削られているようなので資料的価値はない.だから,もっと知りたい読者は原書を買い求めましょう.



三中信宏(2 June 2007)