『月島物語ふたたび』

四方田犬彦

(2007年1月20日刊行,工作舎ISBN:9784875023999



【書評】

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1990〜1991年に雑誌『すばる』に連載され,1992年に集英社から出た『月島物語』の復刻本.本書では復刻部分に続く「追補」として,その後の月島をめぐるエッセイと対談が約100ページ書き足されている.書き出しは,現在の月島のルーツとなった佃島と石川島の歴史と明治以降の干拓史.東京にいた頃は,この元祖ウォーターフロントに足を運んだことは一度もなかったので,なんだか新鮮.場所的には海辺だが,コミュニティー的には「下町」 — とつい言いそうになるのだが,読み進むに連れて現代社会で受容されがちな「下町」観がしだいに揺さぶられていくのが体感できる.月島は干拓によって新しく作られた街並であって,けっして歴史のある場所ではない.では,そのようないわば新参者の町に伝統的?な「下町」を投影したくなる今の日本人の「心象風景」とは何なのだろうか.実際,著者はこれまでの文学や映画,そして流行を挙げながらこの点を詳しく論じている.

実際,本書に登場するさまざまな(そして意外な)月島をめぐるエピソードをたどるのはとても楽しい.たとえば,新佃島にあったという「海水館」なる旅館での小山内薫ら大正時代の文学者たちの交友録(第6章).いまや月島の代名詞になってしまった“もんじゃ焼き”以上に地元密着型のレバーの“肉フライ”(第14章).ここ月島(新佃島)に生まれた吉本隆明は“肉フライ”を一度に6枚も食べたそうな(第16章).そして,いまはもう消えてしまった水上生活者たちの話(第15章)もある.小津安二郎黒沢明の「下町」映画に登場する「月島」の映像論は映画評論家ならではの視点と視線だ(第11,13章).『明日のジョー』の舞台が月島だといううわさがあったらしい(p. 205)が,当時のちばてつやの作品の系譜を見ると根も葉もないことではなさそうだ.個人的にもっとおもしろかったのは,月島の長屋における「台所」の変遷系譜.もともと表通りに面して煮炊きしていた台所が,どのような経緯で家の“奥”に引っ込んでいったかについてのなかば「考現学」的な考察だ(第7章).

新しい土地には,さまざまな人がいろいろな事情で流れ着いてくる.第3章に登場する,『気違い部落周遊紀行』の著者“きだみのる”(1895〜1975)の少年時代の経歴に注目しよう.奄美大島に生まれたきだは台湾に育ったが,漂泊の末,二十歳前の1912年に月島にたどりついた.安月給の工員として働いていた頃,たまたまアテネ・フランセ創立者ジョセフ・コットの知己を得て,1934年に渡仏.ソルボンヌ大学では,かのマルセル・モースの教えを受けたそうだ.本書で触れられている彼の前半生だけでも十分に波瀾万丈だ.

しかし,きだみのるに関しては,『月島物語ふたたび』に書かれていない後日譚がある.アテネ・フランセで仕事を続けたきだは,後年,本名“山田吉彦”の名で,『ファーブル昆虫記』の全訳を岩波文庫から出すことになる(1930〜1952年:部分的に林達夫との共訳).『気違い部落』著者の“きだみのる”が『ファーブル昆虫記』訳者の“山田吉彦”と同一人物であるとは今の今まで気がつかなかった…….ほかにも,きだみのる山田吉彦がレヴィ-ブリュル『未開社会の思惟』やラマルク『動物哲学』(小泉丹と共訳)の翻訳も手がけていたとは.著者はしっかり確認しても,訳者の記憶は定かでないことが多い.きだみのるの生涯については,狙いすましたようにタイミングがよく同時期に出た新刊:太田越知明『きだみのる:自由になるためのメソッド』(2007年2月15日刊行,未知谷,ISBN:9784896421828目次)を読むべし.

『月島物語ふたたび』の著者は,1980年代末にマンハッタンから月島に移り住み,1990年代はじめにボローニャに旅立つため月島を離れた.月島在住の数年間の生活を記録したのがもともとの本だ.今回の刊行に際して追加された末尾の百ページでは,その後の月島の変貌ぶりが対談などを通じて語られる.失われつつあるものとともに,なお遍在的に生き残るもの.ある対談の中で指摘されている通り,著者は「月島のモノグラフ」(p. 309)を遺したということだ.随所にあしらわれたモノクロ写真は実に寡黙にして饒舌だ.

判型・組版・インク・オビのいずれをとっても,本書は本の造りがとてもよい.それにしても,この縦長の判型はどこかで見たような記憶が……と思ったら,巖谷國士『ヨーロッパの不思議な町の不思議な町』(1990年8月30日刊行,筑摩書房ISBN:4480812873目次)を皮切りに,それ以降10年の間に数冊出た同じ著者による『〜の不思議な町』シリーズの判型と同じじゃないか.こういうジャンルのタテガキ本にはふさわしい本の‘かたち’なのかもしれない.

—— 月島に移った版元・工作舎が月島の過去・現在・近未来を見通す本を出したというのは“縁”にちがいない.

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三中信宏(16 February 2007)