『噓と絶望の生命科学』

榎木英介

(2014年07月20日刊行,文藝春秋[文春新書・986],東京,255 pp., ISBN:9784166609864版元ページ

【書評】※Copyright 2014 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved



バイオ系サイエンスの “神曲” に天国篇はない



本書は,四年前に出た前著:榎木英介『博士漂流時代:「余った博士」はどうなるか?』(2010年11月15日刊行,ディスカヴァー・トゥエンティワンDIS+COVERサイエンス: 005],東京,302 pp.,本体価格1,200円,ISBN:9784887598607目次版元ページ)の続編である.



前著は,国の政策により大学院生が倍増し,常勤職につけないポスドクがあふれる時代を概観する本だったが,今回出た新刊は,著者が育ってきた専門分野にもっと近い “バイオ系” の研究領域に焦点が絞られている.それだけにかえって適切な距離感が取りづらかったのではないだろうか.一歩間違えばジャーナリスティックな「煽り」になってしまうリスクが高まるだろう.しかし,適切な資料をふまえつつ,現在のバイオサイエンスな研究環境と研究組織が抱える問題点をあぶり出していく本書のスタイルは,ぎりぎりの冷静さを保っているように感じた.



底辺のポスドクや研究補助者を “奴隷” として酷使する “ブラック” な研究室では研究不正が横行し,その主宰者(PI)は “カネまみれ” の権謀術数にたけている ― と本書の第2〜4章をあえて強引にまとめてしまうと身も蓋もない.しかし,著者は,自らの体験をまじえつつ,そのような科学研究の現状をもたらした経緯と背景について,ひとつひとつ事実を確認しながらレポートを書き進めている.各章末にリストされている引用ソースは読者にとって参考になるだろう.



著者の個人的経歴を考えるならば,本書が描き出す「バイオ系研究領域」はまちがいなく身近な世界であり「場所」なのだろう.しかし,学部からずっと非実験系の研究分野でリクツを相手に仕事をしてきたワタクシにとっては,本書のキーワードのひとつである “ピペド” ということばを耳にしてもまったく実感が湧かない(小説かゲームの世界での仮想キャラクターとさえ感じる).



本書を読んであらためて感じたのは,科学研究が現実に進められている「場所」はかくも多様であるということ,そして研究者個人の経験だけからの一般化は歪んだイメージしかつくられないということだ.しかし,本書に描かれているきびしい現状は確かに研究分野を越えて広がっている.それぞれの研究分野にもち帰って,あらためて自分のいる「場所」で本書が提起する論点について考えていくことで,さらに議論が広く深まっていくだろう.



著者の描く現代科学の “神曲” には「天国篇」がまだない.地獄や煉獄を這いまわる研究者は再び星を見ることができるのだろうか ― 本書を読了してみて,ワタクシは前著とまったく同じ陰鬱な空気を感じた.もちろん,最終章「バイオを取り戻せ」で提案されているいくつかの “救済策” は,「将来の可能性」としてはその芽を伸ばしていくかもしれない.しかし,その前に「いまある状況」をどうするかという問題の方が深刻だろう.



三中信宏(2014年8月15日)

【目次】
はじめに:いま,生命科学に何が起きているのか 7
第1章 「奴隷」が行うバイオ研究 17
第2章 ブラック企業化する大学院 69
第3章 カネが歪めるバイオ研究 107
第4章 研究不正 —— 底なしの泥沼 155
第5章 バイオを取り戻せ 215
あとがき