『Species』

Philip Kitcher

(未刊, 1980年代前半[推定], rough draft[本文143pp.+脚注34pp.])



『本』の連載に【種】のことを書き始めてからというもの,有無を言わさずに相手が自らを開陳してくる.探してもいないのに,見えるところに出てくる相手を無視するわけにはいかない.Philip Kitcher の本となるはずだった『Species』の草稿コピーを故・太田邦昌さんからもらったのは,1980年代なかばのことだったと記憶している.ちょうどその頃,Philosophy of Science 誌に彼が出した,【種】の多元論に関する論文:Philip Kitcher (1984), Species. Philosophy of Science, 51 : 308-333 が出たので,その元原稿かとも思ったのだが,太田さんは「Kitcher が【種】の本を書いているそうだ」と言っていた.ちがう原稿だったのだ.しかし,いくら待ってもそれらしき本は出版されなかった.

後に,Elliott Sober『Reconstructing the Past』(1988)を訳しているとき,参考文献に「Kitcher, P. [ms] : Species. unpublished」という項目を見つけた.出版時期を考えれば,もし Phil. Sci. 誌の論文だったらそう引用しているはずだろう.これは Kitcher の近著のことなのかと Sober さんにメールで質問したら,折り返し「Kitcher (1984) を指していることにしてほしい」と言われた(訳本ではそのように付記した).Kitcher の『Species』が“幻の本”となってしまったことをそのときに実感した.そして,草稿の写しだけがぼくの手元に残り,もう20年も経ってしまった.

活字として公表された原稿は確かに幸せである.その一方で,他から言及されているのに実体のない(あるいは公表されないまま埋もれた)原稿もまた数多くあっただろう.公表をもくろんだのに実現しなかったというのは perish したくない publisher の観点からは挫折かもしれない.しかし,それは必ずしも不幸せとはいえない.関係者のみからなる人脈ネットワークの間でそれは流通したにちがいないからである.そして,決定的な力をもつのはそういう人脈だから.