『東大生はどんな本を読んできたか:本郷・駒場の読書生活130年』

永嶺重敏

(2007年10月10日刊行,平凡社平凡社新書394],ISBN:9784582853940



【書評】

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とても内容の充実した新書だ.日本の社会の中での大学の位置づけがこの1世紀の間に大きく推移し,時代によって政治的・思想的な趨勢も変わってきた.現役のライブラリアンである著者は,東京大学が発足する前の明治維新直後から始まり,21世紀の現在に至るまでの東大学生の読書傾向と彼らを取り巻く社会的・文化的な読書環境と読書装置に着目し,ほとんど語られることがなかった「学生読者の歴史」に関わるさまざまな未知の事実があぶり出される.

明治時代の帝大学生は,とくに文科系の学生は,本を読むというよりは,講義録を筆記して暗記することにほとんどの精力をつぎ込まざるを得なかったという.卒業年次の成績が生涯年収に直結するという究極の「成果主義」が徹底されたからだそうだ.この学的伝統は何十年にもわたって受け継がれる.したがって,彼ら学生が自由に読書できたのは,大学に入ってからではなく,むしろ旧制高校に在学していた頃だったという当時の学生たちの回顧発言が見られる.

その後,大正時代に入ると,東大学内での政治的読書組織がいくつか組織され,たとえば左翼系の帝大新人会(大正7年創立)は一時期,東大の在籍学生の半数を勢力下に置いたという.この新人会は,組織的な読書会や合宿を通じて,大規模な読書装置をつくりあげ,マルクス主義などの政治思想の浸透を図ったそうだ.上の世代が積極的に新入生の読書を教え導くという構図ができたのはこの頃だった.

大正から昭和初期にかけての,東大図書館の蔵書形成の経緯を振り返ったとき,関東大震災による被害からの復興は重要な転機だった.東大総合図書館の蔵書の中には「ロックフェラー財団寄贈図書」という判が押された古書がある.大震災で灰燼に帰した東大図書館はこの財団からの巨額の援助により,短期間での復興が可能になったという.それにもまして印象的だったのは,当時の学生の大学図書館の利用度の高さで,連日,長い行列が伸びるほどの満席状況が続いたという.

興味深いのは単に,本を読むというだけにとどまらず,本の出版・販売・流通にも大学(とその周辺)の組織的運動が学生の読書空間の形成に対して大きな影響力をもったという事実だ.また,大学側もそのような活動を積極的に支持し,あるいは黙認していた.当時の文系学生にとって必須の講義録の出版はもとより,とても高価だった教科書の古書としての流通への積極的参画,学生による書評メディアの創刊など,学生個人のレベルを越えた組織的な力が働いた事例について,著者は東京学生消費組合赤門支部(現在の大学生協の先駆的組織)の活動に着目して論じている.

第二次世界大戦中は,左翼思想の退潮とともに,右翼思想が台頭し,それは東大の学内でも同様だった.しかし,著者はこの時代の特徴として,左右どちらにも属さない“ノンポリ学生”の率が高まったという点を指摘する.戦後は一転して,マルクス主義が勢力を盛り返すことになる.しかし,当時の学生生活実態調査などの資料を踏まえるかぎり,一般社会での読書傾向とさしてちがいがないと著者は言う.帝大学生が一般社会とは異なる別の読書文化をつくっていた時代は過ぎつつあったということだ.

続く昭和30年代の特徴は,一言で要約すれば,「岩波文化の独占」である.東大生の読書アンケートを集計すると,何年にもわたって学内ベストセラーの実に過半数岩波書店の本(とくに岩波新書)が占めていたという.それとともに,岩波の「講座もの」に代表される全集の売れ行きも好調だった.当時の東大生は岩波書店によってその Bildung を行なっていたということだ.

学生運動がまだ盛んだった昭和40年代は,使命としての読書が“選良”としての東大生に共有されていた感覚だったという.しかし,学生運動の退潮とともに,そのような読者共同体は消滅していったのが1970年代以降の特徴だと著者は指摘する.この時期は,ワタクシが駒場・本郷に通った時代とかぶっている.確かに,1970年代当時の記憶をたどると,読書行為の同世代的〈共同性〉はすでに喪失し,組織的な読書運動や合評会はもはや影も形もなかった(左も右も含めて).読書環境としては,著者が指摘する「孤読」とまではいかないものの,少なくとも“個読”の時代に入りつつあったことは実感としてわかる.実際,同級生たちや同世代の学生が何を読んでいたかは全然知らなかったし,またまったく関心がなかったから.もちろん,学年が進み,研究室に配属されて専攻分野が決まってからは,定期的に専門書の輪読会が開催されたこともあるが,それらは Bildung としての読書とはもはやいえないだろう.

本書は,東大学生の読書史に焦点を絞った内容であり,現在の東大学生たちの読書傾向を分析した上で,今後どのように働きかけをしていくかという点については踏み込んだ主張をしてはいない.しかし,かつてのような大規模な読者共同体を再現するのはもはやムリだろう.「外に開かれた“個読”」あるいは「互いにつながる“個読”」に根ざした,もっとローカルなイメージしか私には思い浮かばない.

付記:マンガが東大生の読書文化に浸透する初期の1960年代の話として,著者は白土三平の『カムイ伝』や『忍者武芸帳』に色濃く見られる反権力の姿勢から,当時の「大学生たちは唯物史観を読み取っていた」(p. 254)と記している.実際,私は大学に入ってから,「『カムイ伝』は唯物論マンガだ」というコメントを何度も聞いたことがある.

三中信宏(2 January 2008)