『滝山コミューン一九七四』

原武史

(2007年5月20日刊行,講談社,286 pp.,ISBN:9784062139397目次版元ページ

【書評】※Copyright 2012 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved



ある小学校共同体の物語



著者自身の小学校時代の経験を,抜群の記憶力と資料を踏まえて描いている.たとえ個人の日記や関係者へのインタビューを利用したとはいえ,三十年前のできごとをこれほどリアルに描写できたことにまず驚く.



舞台は大学紛争最盛期が過ぎた1970年代はじめの西武沿線に開発された大規模な滝山団地にある滝山第七小学校だ.この“七小”に通っていた著者は,題名にもなっている「滝山コミューン」の成立について調べ始める.“七小”では「全生研(全国生活指導研究協議会)」による「学級集団づくり」を学校規模で実現させた.著者は:「国家権力からの自立と,児童を主権者とする民主的な学園の確立を目指したその地域共同体を,いささかの思い入れを込めて『滝山コミューン』と呼ぶことにする」(p. 19)と定義する.全生研の構想がなぜ滝山という地域コミュニティにおいて実現できたのか? そして,何よりも「滝山コミューン」はいったい何をもたらしたのか?



なかば自分の過去を振り返る営みとしての著者の遡及は,学校教師と親と子供から成るこの学校共同体を成立させた当時の「団地ライフ」に注目する.同時に,遠山啓が提唱した教育ヴィジョンがいかにして浸透していったか,教師が生徒に及ぼす影響力と波及効果の大きさ,共同体からはじき出されたマイノリティの生きづらさなどいろいろな問題が交錯する.教師による「学級集団づくり」がすべての生徒を有無をいわさず競争と対抗の場に追い込んでいく場面は印象的だ.



眼の前で不可避的に進みつつある事象(コミューン形成)を前にして,それに巻き込まれつつも心情的には離れているという著者の微妙な立ち位置は:四方田犬彦ハイスクール1968』(2004年2月25日刊行,新潮社,255 pp.,ISBN:4103671041書評目次版元ページ新潮文庫])のストーリーを想起させる.四方田は高校生から浪人生にいたる自分を描いたのに対し,本書の著者は小学生時代のできごとを記録した.



まわりの同級生たちが滝山コミューンの中で次々に“初期化”され,新たな思考形態と行動様式を“再インストール”されていくのを目の当たりにするのは(さらに卒業後それらの記憶が当事者たちからきれいに“消去”されていることを知るのは),子供にとっては重い経験だっただろうと推察するしかない.しかも,同時に滝山コミューンという均質化された集団がもつ「心地よい一体感」(p. 211)を著者自身が実感したという皮肉な体験も語られる.それら正負すべての経験をひっくるめて:「自分の目の前にある小学校で起こった出来事は,脳裏に刻み込まれたまま,時間の経過に伴う風化の影響を少しも受けていない.それは,私の人生に消しがたいトラウマとして残ったのである.」(p. 17)と著者は述べる.



教師と保護者(PTA)が一丸となって「結界」をつくるとき,絡めとられた子供たちにはもはや逃げ場はない.本書の後半で,滝山コミューンに異を唱えた著者が同級生たちから「追求(という名の“自己批判”)」を迫られるシーンがある.追い詰められた著者が中学受験進学塾をレフュージとしつつ最終的には私立中学に合格してコミューンから“逃避”できたのは幸いだった.閉じられた学校共同体に忠義立てしなければならない理由はどこにもない.黙って立ち去ればいい.著者はいい選択肢を手にできた.



1968年の大学紛争のクライマックスを過ぎた1970年代がもはや「政治の季節」ではないという見方に著者は異を唱える(p. 18).しかし,滝山コミューンの“核”となった教師はけっして新左翼系の活動家ではなかったそうだ.全生研は日教組の教研集会から分派したものだから,むしろ組合の影響を第一に考えるべきだろう.さらに,日教組の背後にある日本共産党の指導も無視できない.このあたりの叙述はややツッコミが足りないように感じられたが,歴史叙述を目指した本書の主眼はそこには置かれていないようだ.



いずれにしても,この本で述べられているように,1970年代前半は,1960年代の余波を受けて,今日に比べれば十分すぎるほど色濃い「政治の季節」だった.以前読んだ:小林哲夫高校紛争 1969-1970:「闘争」の歴史と証言』(2012年2月25日刊行,中央公論新社中公新書2149],東京,xiv+299 pp., 本体価格860円,ISBN:9784121021496書評・目次版元ページ)の時代も1970年代はじめにまたがっていた.当時,高い組織率を誇った日教組の影響力だけでなく,旧国鉄国労動労によるストライキの頻発,さらには一般市民による暴動もあったことを考えれば,「政治の季節」の裾野はもっと長く伸びていたと考えた方がいいのかもしれない.



卒業後三十年を経てなお反発と郷愁の混ざりあう著者の二律背反的な心の惑いに共感を覚える読者は少なくないはずだ.



三中信宏(2012年5月10日)