『読んでいない本について堂々と語る方法』

ピエール・バイヤール[大浦康介訳]

(2008年11月25日刊行,筑摩書房,235 pp.,本体価格1,900円,ISBN:9784480837165目次版元ページ

【書評】※Copyright 2008 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

年の瀬にいい読書をさせてもらった.しかし,著者の言う「読む」行為とは,単に(トークンとしての)ある特定の本を「読む」ことではないようだ.その本を含むもっと上位の「集合体」を考えたとき,個々の本のもつ意義は考え直す必要があるだろうと著者は主張する.この「集合体」を著者は〈図書館〉と名付け,次の三つの概念を提出する:


  1. 共有図書館:「ある本についての会話は,ほとんどの場合,見かけに反して,その本だけについてではなく,もっと広い範囲の一まとまりの本について交わされる.それは,ある時点で,ある文化の方向性を決定づける一連の重要書の全体である.私はここでそれを〈共有図書館〉と呼びたいと思うが,ほんとうに大事なのはこれである.」(pp. 25-26)
  2. 内なる図書館:「この書物の集合体を,私は〈内なる図書館〉と呼びたい.それは〈共有図書館〉の下位に分類されるべき集合体で,それにもとづいてあらゆる人格が形成されるとともに,書物や他人との関係も規定される[脚註16].」(pp. 94-95);「〈内なる図書館〉とは,私が本書で導入する三つの〈図書館〉のうちの〈共有図書館〉につづく二つ目のもので,個々の読書主体に影響を及ぼした書物からなる,〈共有図書館〉の主観的部分である.」(p. 95脚註16)
  3. ヴァーチャル図書館:「書物に関する — いや,より一般的に,教養に関する — このコミュニケーション空間を〈ヴァーチャル図書館[脚註14]〉と呼んでもいいだろう.これはイメージ(とくに自己イメージ)に支配された空間であり,現実の空間ではないからである.」(p. 155);「〈ヴァーチャル図書館〉は私が本書で導入する〈図書館〉のうちの三つ目のタイプで,書物について口頭ないし文書で他人と語り合う空間である.これは〈共有図書館〉の可動部分であって,語り合う者それぞれの〈内なる図書館〉が出会う場に位置している.」(p. 155脚註14);「このヴァーチャルな空間は騙し合いのゲームの空間である.その参加者たちは,他人を騙す前に自分自身が錯誤に陥る.」(pp. 187-188)

このように,書物のかたちづくる複層的なコミュニティを前提としたとき,その構成要素である個々の本は全体との関わり合いの中でのみ意味をもつことになる:


問題なのはけっしてしかじかの書物ではなく,ひとつの文化に共通する諸々の書物の全体であって,そこでは個々の書物は欠けていてもかまわない.つまり,〈共有図書館〉のしかじかの要素を読んでいないと正直に認めていけない理由はどこにもないのである.その要素を読んでいなくても,〈共有図書館〉全体を眼下におき,〈共有図書館〉の読者のひとりでありつづけることはできるからだ.この全体が個々の書物をとおして顕現するのであって,個々の本はいわばその仮の住まいにすぎない.(p. 146)

では,どうして現実には上のような認識が広まらないのか.著者は「読書」をめぐる文化的な“しばり”がいまだに強いからだと指摘する:


しかじかの本を読んでいないと認めつつ,それでもその本について意見を述べるというこの態度は,広く推奨されてしかるべきである.この態度は,先の例からも分かるように,積極的な意味をもっている.にもかかわらずこれがほとんど実践されないのは,本を読んでいないことを認めることが,われわれの文化においては,重い罪悪感をともなうからである.(p. 147)

その上で,著者はそれぞれの〈図書館〉を構成する要素(すなわち〈本〉)を次のように定義する:


遮蔽幕としての書物〉が〈共有図書館〉に属し,〈内なる書物〉が〈内なる図書館〉に属しているように,〈幻影としての書物〉は〈ヴァーチャル図書館〉に属している.(p. 193脚註11)

明らかに,この著者の読書論はトークンとしての本を超越している.このようなとらえ方をするときに浮上してくるひとつの問題は,〈共有図書館〉の部分集合たる〈内なる図書館〉が各人の中でどのように形成されるのかということだろう.それはまた,「読んでいない本について堂々と語る」ことができるのはいったい誰なのかという問題にもつながる.もちろん,著者の立場としては,「本を読まないことは不徳である」という旧態依然としたしがらみから解放されることで,万人が読書の新たな創造の場を切り拓くことができるとなるにちがいない.しかし,それがよい結果を生むかどうかはパーソナルな〈内なる図書館〉の「蔵書」の質と量に依存していることもまた事実だろう.

それぞれの文化圏ごとに決まる〈共有図書館〉の蔵書は,そのひとつひとつは“ランドマーク”としての位置づけが与えられる.そして,それぞれの読者は読書人生を歩み始めた最初の頃から,この〈共有図書館〉の“ランドマーク”をサンプリングしながら,自らの〈内なる図書館〉を構築していったはずだ.とすると,人によって〈内なる図書館〉の“ランドマーク集合”には当然ちがいが生じる.

著者は,このように個人差のある“ランドマーク集合”から“内挿”することにより,たとえ特定の本をまったく読んでいなかったとしても,その本について「堂々と語る」ことができるはずだと主張している.“ランドマーク”のサンプリングが密であればそのような“補間”が大きく外れないだろうことは十分に想像できる.その一方で,サンプリングがあまりに粗であったときには,かなりの確率で言説がハズレるだろうこともまた容易に予想できる.著者はそういうハズレ言説(トンデモ系)にもまたある種の価値を見いだそうとしているのかもしれないが(〈ヴァーチャル図書館〉という仮想空間のなかで),ぼくはその点にはまったく同意しない.

ウンベルト・エーコは,書かれた本の内容に関する「過剰解釈」 — すなわち過度の「深読み」 — を手厳しく批判したことがある.本についての論議は何の制約もなくやればいい(この点では著者は正論を述べている).しかし,その論議の妥当性(“補間”のよしあし)は当の本に照らしてはじめて評価することができる.「読んでいない本について堂々と語る」自由はどんな読者にもあるだろう.しかし,“欠測値”を周囲からいくら“補間”したとしても,“実測値”にはけっしてかなわない.自分なりの〈内なる図書館〉を長年にわたって築いてきた読者ならば,“補間”に腐心するくらいだったら,その時間を“実測”に当てるのが最善の選択肢ではないだろうか.本書を読め,そして本を読め.

三中信宏(20 December 2008)