『オーケストラ:知りたかったことのすべて』読売新聞書評

クリスチャン・メルラン[藤本優子・山田浩之訳]
(2020年2月17日刊行,みすず書房,東京, vi+541+55 pp., 本体価格6,000円, ISBN:978-4-622-08877-6目次版元ページ

読売新聞の大評が公開された:三中信宏トラブルと奇跡の宝庫 —— オーケストラ 知りたかったことのすべて クリスチャン・メルラン著」(2020年4月19日掲載|2020年4月27日公開).欧米の有名オーケストラの歴史と内情に通じた著者が描くオーケストラという “超生物(スーパーオーガニズム)” .その生きぬく姿は,ときにおかしく,ときに悲しい.そしてときに奇跡を生む.指揮者とパートトップ(ソリスト)そしてその他大勢の団員(テュッティスト)の総体的底力の根源は何か.



トラブルと奇跡の宝庫

 かつて評者が大学オーケストラの打楽器奏者だったとき、笑うに笑えぬ“演奏事故”に何度も遭遇した。しょせん大人数のアマチュア楽団員によるパフォーマンスだから悲喜劇はつきもの。楽団員や合唱団員が何百人いようとも、気合を入れた大太鼓や銅鑼の“交響的一撃”をはずしてしまったら一巻の終わりだ。

 欧米の名だたる管弦楽団の歴史と事情に通じた著者は、プロのオーケストラでさえいろいろな意味で完璧ではないというエピソードの数々を600ページにも及ぶ本書にぎゅっと詰め込んだ。来日公演の本番中に振りまちがえてしまった指揮者が「今はどのあたりかな」と眼の前のヴィオラ奏者にそっと尋ねたら「ここは日本ですよ、先生」と即答されたという。それ、掛け合い漫才ですか。

 どのオーケストラも、コンサートマスターを筆頭として各楽器パートの第一奏者“ソリスト”が全体の音づくりを先導する。しかし、ソリストだけがオーケストラの構成員ではない。その他大勢のオーケストラ団員すなわち“テュッティスト”たちにも人生行路の浮き沈みがある。

「オーケストラはトラブルの宝庫であるとともに、奇跡の宝庫でもある」という著者の言葉は誇張ではないが、想像を超える生存競争はたじろぐばかりだ。オーケストラの団員ポストをめぐる熾烈な争奪戦、新米の団員が受ける厳しい試練、指揮者とオーケストラ団員の蜜月と仲違い、数知れないパワハラやセクハラ事件など、一般社会の縮図のような濃密な光景がオーケストラという狭い世界の中で繰り広げられる。

 長い歴史をもつオーケストラほど独自のサウンドが醸成され、たとえ団員が入れ変わってもその音響的伝統は長年にわたって聴衆を魅了する。文化的実体としてのオーケストラはひとつの大きな“群体生物”あるいは“超生物”かもしれない。この生き物には昨今のコロナ禍をしぶとく生き抜いてほしい。藤本優子、山田浩之訳。

三中信宏[進化生物学者]読売新聞書評(2020年4月19日掲載|2020年4月27日公開)



本書の新聞書評はすでにいくつか見かけた.たとえば,東京新聞書評:茂木大輔「音楽家の集合体」舞台裏に迫る」(2020年3月29日)はプロオケ出身の観点から本書を読み解いている.また,朝日新聞書評:西崎文子「「オーケストラ」 個性が奏でるこの夢心地の瞬間」(2020年3月21日)もまた弦楽器経験者らしい精緻な読み方だと思う.