『ホッキョクグマ:北極の象徴の文化史』読売新聞書評

マイケル・エンゲルハード[山川純子訳]
(2020年8月5日刊行,白水社,東京, 345 pp., 本体価格12,000円, ISBN:978-4-560-09746-5版元ページ

読売新聞大評が公開された:三中信宏漂白された北極熊伝説 —— ホッキョクグマ 北極の象徴の文化史」(2020年12月13日掲載|2020年12月21日公開).



漂白された北極熊伝説

 先日、酷寒のカナダ北極圏で懸命に生きるホッキョクグマ母子の生態をレポートしたあるテレビ番組を見る機会があった。生まれたばかりの子熊2頭を連れて北に向かう母熊に過酷な自然環境と狂暴な雄熊が相次いで襲いかかる。ネイチャーものの定番であるハッピーエンドな台本に安らぎを覚えつつ気になる点があった。ホッキョクグマはアザラシを主食とする。その番組でも氷上でアザラシが狩られる場面が映されたが、不思議なことに、雪と氷に覆われた真っ白な大地を真っ赤に染めたはずの“血の海”の光景は注意深く消し去られていた。そう、ホッキョクグマという純白の偶像には“血”の汚れはふさわしくないのだ。

 本書は地上最大の肉食動物であるホッキョクグマの文化史を描く大著だ。高緯度の北極圏に生きる彼らだが、最古の“白い熊”の記録は『日本書紀』にあるそうだ。当時からその希少性が取り沙汰されていたホッキョクグマの毛皮は、北極海を取り巻く国々にとって重要な交易品として高い価値をもつようになる。本書に所収されている白熊猟を描いた数多くの絵画は、一方ではホッキョクグマの“獣”としての荒々しさを印象づけ、他方では極北のシンボル動物としての“聖性”をも強調することになった。

 その後ヨーロッパの動物園やサーカス団では生きたホッキョクグマを目にする機会が増えた。今世紀はじめ、ベルリン動物園の白熊“クヌート”の物語は、ある飼育員によって献身的に育てられた“愛らしい”ホッキョクグマの子熊として一躍世界的に有名な文化的アイドルに祭り上げられた。そして数年後に飼育員が亡くなり、その後を追うようにクヌートも病死したことで彼らは不可侵の伝説となっていった。

 いまなお進む地球温暖化により消えゆく北極圏の雪氷はそこに生きるホッキョクグマの生存を脅かしている。虚像と実像のはざまに生きてきた彼らのすべてが本書にある。山川純子訳。

三中信宏[進化生物学者]読売新聞書評(2020年12月13日掲載|2020年12月21日公開)