『東京焼盡』再読(第1〜26章)

内田百閒
(1955年4月20日刊行,大日本雄辯會講談社,東京, 261 pp.)

ふと思い立って読み返している。第二次世界大戦末期(1944年11月1日から1945年8月21日まで)の東京が米軍空襲で燃えていくようすを克明にしかも淡々と記録した80年前の “日記” は、今の時代にはかえってリアルに感じられる。

東京焼盡』の日記としての価値は、たとえば米軍機が飛来した際に「警戒警報」と「空襲警報」が発令された時刻が記録されていることだ。日中はもちろん真夜中でもおかまいなしに警報が鳴り響き、その都度、百閒夫妻は服を着替えて防空壕に逃げ込む日々が綴られる。

こんなくだりがある:「數年前の每晚の御馳走を書きとめた御膳日記を出して見た。昭和十一年の書き始め也。今日の御飯にも困る今から見れば誠に隔世の感あり」(1945年3月7日、第22章, p. 70)。戦火が激しくなり米や合成酒の配給にも事欠く時代であっても、かつての “食” の思い出は消えない。

B29などの大編隊が東京のあちこちに焼夷弾を落とし、地上からの高射砲での応戦、爆撃による火災の広がりを目撃し、また焼け出された被災者のうわさも百閒は耳にする。しかし、日々窮乏する生活をどのようにしのぐのかという “生活者” の視点がいつもどこかにある。東京大空襲の2ヶ月前のことだ。

1945年3月10日の東京大空襲について、百閒は自ら経験した関東大震災との比較をしている:「空は晴れてゐたけれど風強く、火事はますます大きくなった。大正十二年の大地震の大火の時に出来た入道雲のような煙のかたまりが今夜も現はれた」(第23章, p. 71)——これって “火災旋風” のことか?

どんな状況にあっても「日記」を長く記し続けることは、動機としては極私的かもしれないが、残された記録は情報源として利他的な意義もあるだろう。長く続けたから意義が生まれるのであって、意義があるから長続きしたわけではない。