『博物学のロマンス』リン・L・メリル

(2004年12月10日刊行,国文社,isbn:4772005072



本書第4章(pp. 122-168)を読了.19世紀における科学と文学との乖離(C. P. スノウの言う〈ふたつの文化〉の相克)を論じる.この著者はへんにまわりくどい言い方をしないで,すぱっと言うのが小気味よい.この章では,科学と文学という対置の中で,博物学の占めるべき中間的立ち位置(「雑種的学問」,p. 166)について,著者はこう言う

  • 科学にくらべると博物学は図式的枠組みにこそこだわってはいないものの,それでも自然界についての詳細な情報をひとつとして見逃すまいとする情熱は,科学に劣らなかった.ただし,自然の事実が集まると,そこから先はそれをどう利用するかによって,科学と博物学とは袂を分かった.科学はそうした事実を理論へとまとめあげる.博物学は,もっと美的な目的をもっていて,自然に関する事実を文学テクストに変える.[p. 123]

著者は,「科学」をやや狭くとらえているような気がするんだけどな.たとえば.科学の「美」についての著者の見解:

  • 科学にもある種の美は存在するかもしれない.−−数学者は方程式に簡潔な美しさを見いだすかもしれないし,化学者は実験そのものを,物理学者は理論そのものを美しいと感ずるかもしれない.だが美は科学の目的ではない.科学の目的は知識である[p. 165]

を見ると,その感を強くする.18世紀以降に戦わされたという「科学対文学論争」の中で,文学側が抱いた危機感を象徴する〈虹の解体〉という詩人キーツの言葉を著者は引き合いに出している(p. 161).リチャード・ドーキンスの『虹の解体:いかにして科学は驚異への扉を開いたか』(2001年3月31日刊行,早川書房,ISBN: 4-15-208341-7)は,メリルの原著が出版された頃(1989年)はまだ影も形もなかったんですね.まったく同じキーワードの解釈がこれほど正反対になり得るとは.