『東アジアの本草と博物学の世界(上)』

山田慶兒(編)

(1995年7月21日初版刊行/2007年10月5日復刊第2刷,思文閣出版,京都,x+333+xix+2 pp.,本体価格7,500円,ISBN:4-7842-0883-6[初版]/ISBN:978-4-7842-0883-8[復刊]→ 目次版元ページ

木村陽二郎は,「植物の属と種について」(pp. 43-71)の中で,「種とは何か」という設問に対して:


かつて「種とは何か」という問いが雑誌に連載され私も問われたので私は「人がこれこれの形質をもったものがこの種であると定義したものが種である」とした.(p. 50)

という絶妙な答えをしている.ここでいう“雑誌連載”とは,『採集と飼育』(日本科学協会)の1983年第45巻に掲載された連載のことだ.あとでチェックしよう.



続く西村三郎は,「東アジア本草学における「植虫類」:西欧博物学との比較の一資料として」(pp. 72-101)の中で,植虫類(Zoophyta)の分類学的・本草学的地位の変遷を論じているのだが,「西欧博物学との比較の一資料として」というサブタイトルがあるように,博物学的精神の東西差についての考察が最後になされている.


東アジアの伝統的な本草学・博物学[……]に顕著なのは,個々の自然物を薬効・その他の点で有用な部分に焦点を合わせながら記述していくという姿勢である.[……]そこでは,自然物全体よりも個物が,さらに,個物の有用な「部分」が個物の「全体」に優先さえする.そして,この姿勢が貫かれた場合には,全体としての自然物の配置=体系づけについての目配りが希薄になるばかりか,時として,同じあるいは同類の自然物がまったく別個の部類に配属されて扱われ,記述されるという,奇怪な事態もしばしば起こる.(p. 96)

本草学では「記載の科学」から「分類の科学」への進展が滞っていたということなのだろうか.西村は,実用性という観点が東洋の本草学の中心的教義であり続けた点に着目し,西洋との差異を特徴づける:


そもそも本草学とは,薬効のある自然物をしからざる類似物からはっきりと,しかも簡便に見分けることを主目的としたひとつの技術体系である.必ずしも物自体の本性を究めようとするものではない.物がどの部類に配属されようとそれはいわば第二義的な問題でしかない.[……]これに対して,いち早く本草学の段階から抜け出た西欧の博物学はどうであったか? 単に自然物を正確に見分けるだけでなく,物それ自体の本性を問い,人間中心の立場をはなれて,自然全体の秩序のなかにおけるその位置を明らかにする —— これを目標とするものであった.(p. 97)

のちの大著『文明の中の博物学:西欧と日本(上・下)』を髣髴とさせる論考だ.