『日本語の科学が世界を変える』

松尾義之

(2015年1月15日刊行,筑摩書房[筑摩選書・0107],東京, 238 pp., 本体価格1,500円, ISBN:978-4-480-01613-3目次版元ページ

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日本語で科学ができるシアワセな日本



ところどころ勇み足の “放言” が散見されるが,一読してとても「元気が出る本」だった.「日本語で科学ができるシアワセな日本」の意味するものについて,長年にわたって日経サイエンス誌など主要な科学誌の編集に携わってきた著者は,数々の具体的なケースを挙げながら論じている.自らの豊富な体験と見聞を踏まえた著者の問題意識(本書全体を貫く基調モチーフ)は「はじめに」に明言されている:

日本語で科学ができるという当たり前でない現実に深く感謝すること,この歴史的事実に正面から向き合ってきちんと評価し大切に伝統を保持していくこと,それが日本語で科学することの意義であり責務である.それは日本の科学や技術を発展させる原動力となり,世界中の人々が望んでいることにつながっていくはずだ,と.(p. 15:下線部は原文傍点)

第1章「西欧文明を母国語で取り込んだ日本」と続く第2章「日本人の科学は言葉から」では著者の問題設定の背景が述べられる.他のアジア諸国では母国語ではなく「英語で科学する」ことが当たり前である.ところが日本は例外的にそうではない.「でも,それは自然にそうなったわけではない」(p. 20)と指摘する著者は,西洋の科学を翻訳を通じて思考枠まで含めて丸ごと取り込んできた日本の科学受容の歴史を振り返る.江戸時代末期から明治にかけて日本に入ってきたさまざまな科学はことごとく翻訳され,日本の科学者コミュニティーの血となり肉となった.東アジア諸国の中でも際立って特異なこの経験が,今日の日本の科学の基盤を築いたとみなす著者は次のように述べる:

本音を言えば「日本語主導で独自の科学をやってきたからこそ,日本の科学や技術はここまで進んだのではないか」と思うところはある.(p. 21)

この見解に対しては,もちろん支持と反論がともにあることを承知しつつ,著者はあえてそのプラスの面に光を当てようとする:

再認識すべきは,少なくとも日本の創造的な科学者にとって,英語は必要ではあっても十分な武器ではない,ということだ.最大の武器,それは日本語による思考なのだ.このきわめて当たり前の事実を,当たり前と思わないでかけがえのないチャンスと見ること,そこに,日本の科学の未来があると私は思う.(pp. 36-37)

過去から続いてきたこの伝統を現代の研究者は将来につないでいく義務があると著者は力説する:

日本語の科学をより豊かにするためにどうするか.私の提案は,科学者は一割でも二割でもいいから,英語によるつまらない論文書きを減らしなさい,というものだ.(p. 42)



その代わりに,科学者は,次世代の若者の心を掻き立てるような日本語による教科書や科学啓蒙書を書くべきである.(p. 43)

現実問題としては,たとえ「英語によるつまらない論文書き」であっても減らすわけにはいかないだろう.したがって,われわれ研究者はそういう(つまらない)論文書きをするかたわら,日本語でのアウトプットを出し続けるしかない.要するに,日本語と外国語でとにかく「もっとたくさん書け」ということになる.それしか道はない.



次の第3章「日本語への翻訳は永遠に続く」では,日本語による科学を長年にわたって支え続けてきた翻訳に目を向ける.日本語による科学の実践を可能にした歴史的要因としての翻訳を著者は大きく評価し,将来にわたって翻訳の努力を科学者たちは怠ってはならないと言う:

いまのところ問題はないようだが,あえてカタカナ表記を選ぶ場合ならいざ知らず,翻訳の労をいとうためのカタカナ表記というのも散見される.この手の科学者のサボタージュが,将来の日本の科学に何らかの悪影響を与える可能性は無視できないと思う.(pp. 65-66)



日本人の科学のユニークさは,日本語で科学を展開していることであり,そのためには,永遠に新しい言葉を日本語に翻訳し続けなければならない.(p. 83)

ワタクシ自身も自分の専門分野(生物体系学)のかなりたくさんの専門用語に翻訳語を新規に “造語” した経験が少なからずあるが,翻訳語を体系的に構築するには理論の枠組みそのものを理解しないといけない.それとともに,翻訳を通じて科学の最先端を日本語で紹介できるのは研究者としてはヒソカな悦楽でもある.



第4章「英国文化とネイチャー誌」と第5章「日本語は非論理的か?」は,英語と日本語の比較論.続く第6章「日本語の感覚は、世界的発見を導く」では,理論物理学と中立進化論を取り上げ,日本人がなぜ世界的業績をあげることができたかを日本語との関わりの中で考察する.



これらの事例を踏まえて,第7章「非キリスト教文化や東洋というメリット」では,科学における文化の違いがもたらす積極的意義を著者は指摘する:

ともすれば,西欧社会で学ぶことが科学などの知的競争でメリットになるかのような言われ方をするが,創造性という観点に立った時は,決してそんなことはない.むしろマイナスの面さえあると言わざるをえない.逆に,しっかりとした異文化の母国を持っていることこそが,創造性豊かな成果を生む源泉となりうるのだ.(p. 144)

著者のこの認識を踏まえて,科学におけるいわゆる「グローバル化」対「ローカル化」の功罪の議論につながっていく:

こうした中で,いまの科学界あるいは日本の科学界は,どちらの方向を思考したらよいのだろうか.私は,グローバル化とは反対の方向,つまり日本ローカルでよいから,個性的で地域的な発想力を磨き育てる方向に向かうことではないかと思う.(pp. 146-147)



日本語できちんと科学すること,もっともっと日本語で科学すること,それがいま,最も普遍的で世界に貢献する道だと思う.(p. 147)

ワタクシは,進化学や系統学の現代史を振り返るかぎり,かぎりなく偏った学説の数々が “ローカル” に生じた実例をいくつも知っているので,著者ほど楽観的にはなれない.しかし,ローカルな科学が育つ場を鍛えあげて, “グローバル” に通用するよう力を尽くすという前向きな姿勢には共感する.



日本語で科学ができる日本人の幸運は,著者が言うように,先人たちの努力により形づくられてきた.ローカルに生まれた科学理論を育てるとともに,グローバルな文脈の中でそれらがどのような位置を占めているのかを評価できる眼力を育てていくことがいま求められているのだろう.それがあって初めて「日本語で科学ができるシアワセな日本」の将来がさらに拓けるだろう.それはワタクシたちの世代の研究者コミュニティーの双肩にかかっている.



三中信宏(2015年2月24日)

[付記:2015年2月25日]本書と内容的に深く関わりがある本を3冊挙げる:





これらの諸論考をよく読むと,ローカルな「日本の科学」のゲニウス・ロキは,必ずしもいつも善良ではなく,ときとして邪悪であることがわかる.ワタクシが『日本語の科学が世界を変える』に描かれている「日本語で科学ができるシアワセな日本」に対してそれほど楽観的になれない理由のひとつはここにある.



ローカルに遂行される科学はその「場」を支配するゲニウス・ロキと日常的に遭遇するということだ.ゲニウス・ロキがローカルな科学に牙を剥くとき,ローカルな日本の科学者はある場合は幸いにしてグローバルに生き延び,またある場合はその餌食になって偏狭な科学理論に固執したりしたはずである.



著者の主張がイマイチしっくりこないのは,挙げられている事例のほとんどが物理学や化学あるいは実験系・理論系の生物科学だったからだと気づかされる.さまざまな科学ごとにローカルな「場」のゲニウス・ロキの表情は異なっている.とりわけ自然史や体系学のような歴史叙述的科学の場合,ローカルな科学の「場」を相対化するためには,グローバルな科学の「眼」を同時並行で鍛える必要があるだろう.

本書の新聞書評記事をいくつか見つけた: