『科学が作られているとき:人類学的考察』

ブルーノ・ラトゥール[川崎勝・高田紀代志訳]

(1999月3月10月刊行,産業図書,東京,473 pp., 本体価格4,300円,ISBN:4782801211



【書評】※Copyright 2005 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved


科学論におけるサイエンス・スタディーの1つの姿として、また科学の「社会的構築」の議論として、本書は論争の的になりました。「サイエンス・ウォーズ」の中で原著(1987)に対する毀誉褒貶が大きかっただけあって、ラトゥールは「日本語版への序文」の中で、本書が一方的な「社会構成主義」(social constructivism)を支持しては「いない」という点を強調しています(p.3)。本書では、科学技術論における「社会構成主義」対「素朴実在論」という二項対立ではなく、むしろ「対称的な説明」をめざしたラトゥールは弁明します(p.2)。


読者は、最初から「双面神ヤヌス」に先導されながら、本書を読み進むことになります。要所要所で、このヤヌスは「お言葉(格率)」を発します。本書のヤヌスは、ラトゥールのいう科学の「対称性」の化身とみなすことができ、科学がもつ「二面性」−「既成の科学」と「作成過程の科学」(p.6)−に光を当てる役回りを終始演じます。


科学の営為を民族誌エスノグラフィー)の手法でアプローチするというのが本書の新機軸といえます。ラトゥールは、科学を「民族誌」として記述するために、科学のブラックボックスを開けて、「外側から科学の中に侵入し、論争の後を追い、最後まで科学者について行き、作成段階の科学からゆっくり出て行く」(p.25)をモットーとして、さまざまな個別科学(分子生物学の事例が多い)のケーススタディーに向かいます。


本書のキーワードである、「既成の科学」と「作成過程の科学」という二分法に関して、著者は

  • 不幸なことにほとんど誰も作製段階の科学に関心を抱いていない。作動している科学の示す無秩序な混合物に躊躇し、科学的方法と合理性という秩序だった型の方を好む。(p.27)
と主張します。しかし、その「二分法」はいったい誰にとって役立つ「分類」なのでしょうね。少なくとも、科学を「作製する」側の科学者にはきっと役立たないことは明白でしょう。


いや、こういうことを言っても仕方がないのかもしれません。本書全体が、「外から見た"科学"のあり方」を論じているからです。ラトゥールの言う、科学への「民族誌的アプローチ」では、たとえ調査者が<ムラ>の「中」に入ろうが、調査者自身の視点はいつも「外」に固定されています。ラトゥールのヤヌスが、(調査対象である「科学者」の観点から見て)奇矯な発言をしばしば繰り返す原因は、ここにあると私は考えます。


たとえば、ヤヌスの「第1の格率」−「ただ事実をまっすぐに得よ」対「役に立たない事実はすべて取り除け」(p.13)−を考えてみましょう。単純に言って、ヤヌスの「お言葉」は、いずれもまちがいですよね。まちがいといって悪ければ、単に「両端の極論」をラトゥールのヤヌスは口にしているだけ。だって、科学者はそんなことしてないでしょ?


ラトゥールは、自らの主張を「7規則」(付録1)と「6原理」(付録2)として要約しました。「規則」とは、科学技術社会論(STS)を実行するための「公理」であり、「原理」とはラトゥール自身が得た経験的「知見」です(p.29)。しかし、これらについても、私だったら疑問符を付けたい項目があります。


これは本書全体のスタイルと思われますが、事例記述はきわめて詳細である(けっこう読むのが疲れる箇所もあり)一方で、一般論(本書で「格率」・「規則」・「原理」と呼ばれるもの)への橋渡しが跳躍している(と思われる)部分が見られます。このように,本書の一般論については私は必ずしも同意できない点があるが、個別には興味深い記述があります。たとえば、第5章の「ネットワーク/関連性」の議論はけっこうおもしろかったです。


一般に,科学の社会的構築主義が、「主観に「認識された像」が時代、社会、グループなどによって異なり得る」(村上陽一郎)と主張するのであれば、人間進化学・認識人類学・認知科学はそれに対する「反証」をすでに与えているのではないかと私は思います。


ラトゥールの本には、「民俗分類」(folk taxonomy)の事例が取り上げられています(pp.339-345)。たとえば、認識人類学のケース・スタディーとして有名なニューギニアのカラム族の民俗分類について、ラトゥールはこう主張しています:

  • したがって、ブルマー[R.N.H. Bulmer:カラム族の民俗鳥類学の研究者]は、自分の分類法(カソワリは鳥である)や研究計画(なぜカラム族にとってカソワリが鳥でないのかを同僚たちに説明する)に固執している。カラム族もまた、自らの分類法(コブチはヤクトではありえない、それですべてである)や、狩猟や婚姻習俗に固執する(野生は危険であり、近親相姦も危険である)。各種の鳥の間の連関はブルマーとカラム族がそれぞれ結び付いている二つの世界と同様に確固としている。ニュージーランドの人類学協会や雑誌『マン』[Bulmer がこの研究を最初に発表した学術誌]やオークランド大学がひとつの世界であり、ニューギニアのシュラダ山脈の上カイロン渓谷がもうひとつの世界なのである。(訳書:pp.340-341)※[ ]は三中による

ラトゥールは、「世界(社会)」の違いが「連関(ネットワーク)」の違いをもたらし、その結果として「分類」のちがいが生じたと言いたいようです。この記述を読むかぎり、「分類体系」は「社会的構築物」であることになります(読者はきっとそう思うでしょう)。しかし、その後の認識人類学者の結論は、ラトゥールとは正反対でしたね。


ラトゥールは、少なくとも Bulmer ら初期の民俗分類研究者の仕事を知っているにもかかわらず、そこから正反対の結論を導こうとしています。ラトゥールの文章は、間違いとは言わないまでも、一方的すぎると私は考えます。


ラトゥールの本の読者は、きっと双面神「ヤヌス」の暗躍に惑わされると私は思います。その登場は唐突であるにもかかわらず、その役回りは主役級です。ヤヌスのふたつの「顔」が、それぞれ対極的な言動を発するとき−一方は素朴実在論的な、他方は社会構築論的な−、読者はついついそれらの見解は重要性において「等価である」とみなしてしまいがちです。


しかも、ラトゥール自身が「見解の対称性」を免罪符にして、双方の科学論的見解を並列させているのです。したがって、無意識のうちに対称的両見解の等価性を印象づけられた読者は、なおのこと「そういうものかぁ」と納得させられてしまいます。ラトゥールのこの議論戦略は実にうまい!


「対称性」(要するに両論の equal opportunity を保証せよという主張)を盾にして、科学の社会的構築論的解釈を述べることは、ラトゥール自身がどう言おうが、また本書の翻訳者がどう弁護しようが、結果として社会的構築論を支持していることになると私は思います。


三中信宏(1/February/2005)




【目次】
日本語版への序文
謝辞

序章 パンドラのブラックボックスを開く

第1部 弱いレトリックから強いレトリックへ
 第1章 文献
  パートA 論争
  パートB 論争が燃え上がるとき、文献は専門的になる
  パートC 敵対的な状況からの攻撃に耐えるテクストを書くこと
  結論   数、もっと多くの数
 第2章 実験室
  パートA テクストから事物へ:対決
  パートB 対抗-実験室を構築する
  パートC 自然を(に)訴える

第2部 弱い点から強い要塞へ
 第3章 機械
  イントロダクション:事実構築者の困惑
  パートA 関心を翻訳する
  パートB 関心を抱いた集団を列に保つ
  パートC 拡散のモデル 対 翻訳のモデル
 第4章 インサイダーズ・アウト
  パートA 他者に実験室に関心を抱かせる
  パートB 同盟相手とリソースを算定する

第3部 短いネットワークから長いネットワークへ
 第5章 理性の法廷
  パートA 合理性の試験
  パートB 社会論理学
  パートC 誰が固い事実を必要とするのか
 第6章 計算の中心
  プロローグ 野生の思考の家畜化
  パートA 遠隔作用
  パートB 計算の
  パートC 測定学

付録1 方法の規則
付録2 原理
訳者解説(高田紀代志)
訳者あとがき(川崎勝)

参考文献
索引