[目]『人間の測りまちがい:差別の科学史』

スティーヴン・J・グールド[鈴木善次・森脇靖子訳]

(1989年7月20日刊行,河出書房新社,東京,444+xxii pp., 本体価格3,900円, ISBN:4309250483

【書評】※Copyright 2002, 2011 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

頭骨,身体,知能指数を測ることで,人間を測りそこねた生物学史

2002年に逝去した著者の残した数多くの著作の中でも,本書はひときわ異彩を放っている.その中心テーマは生物学的決定論だ.「生物学的に決定されている」という主張は,教育や環境によっていかに人間を向上させようとしても,しょせんは「限界」があるとみなす運命論・宿命論を育んだ.優生学や優生運動はその延長線上にある.本書を通じて著者は,社会の中に埋めこまれた活動としての科学が,人間に関していかに誤った決定論的主張を繰り返してきたかを科学史的にたどっている.



生物学的決定論の何が誤りなのか――著者は「実体化」(reification)と「序列化」(ranking)という二つのキーワードに沿って決定論の誤謬を暴こうとする(第1章).19世紀には,人体計測を通して,民族・人種・社会階層の間のちがいを定量化しようとする研究が大流行した,人体計測学とか頭蓋計測学とよばれる学問分野は,生物学的決定論に客観性を与える上で大きな貢献をした.著者は,これら人間の計測学の系譜を詳細にたどることで,そのような研究がいかなる文化的・社会的バイアスのもとで推進されていったのかを明らかにする(第2〜4章).



とりわけ頭蓋骨の計測は特別な意味があった.それは,人間の「知能」を客観的に計測できるかもしれないという希望を科学者に与えたからである.20世紀に入ると,その動機づけは知能の実体化を目指すという心理測定に置き換えられた.知能指数(IQ)をいかに測定するか,そして人種間の知能指数の差異がどれくらい遺伝的に決定されているかを解明することが当時の大きな研究目的となった.心理学者によって編み出された知能テストは,軍事・移民・優生・断種政策など多方面にわたって強大な影響力を及ぼした.しかし,その研究を進める中で置かれたさまざまな生物学的仮定が根本的にまちがっていることを著者は片端から指摘していく(第4〜5章).



統計学を駆使した定量化は,知能なるものの巧妙な実体化と序列化をもたらしたと著者はみなす.続く第6章は本書の中でもっとも専門的な内容を含む.古生物学者としての訓練を受けた著者は統計学とくに多変量解析の素養をもっているが,この章では多変量解析の1手法であり,心理測定学で広範に用いられてきた因子分析の批判的検討をしている.著者は,一般知能なる量が実在するという因子分析からの結論はまちがっていると言う.



生物学的決定論に向かって決然と「ノー」を突きつける著者は,その後の増補改訂版でも新たな遺伝決定論の出現に対してさらなる闘いを挑み続ける.近年の人間社会生物学進化心理学に対しても著者は終始批判的だ.読者は過去の歴史をふりかえることで,人間を対象とする生物学的研究(とその社会的影響)の抱える問題の根深さを再認識するにちがいない.



本書は,古生物学や進化学に関する数多くの洒脱なエッセイで知られる著者のもつもうひとつのハードな側面を見せてくれる.







本書の翻訳が出る前に原書:Stephen Jay Gould『The Mismeasure of Man』(1981年刊行,W.W. Norton, New York, 352 pp., ISBN:0393014894)を読了していた.生物学的決定論に関する政治的メッセージを伴った本というよりは,むしろ形態測定学と生物統計学の歴史という当時ワタクシが関心をもっていたテーマの本として精読した記憶がある.翻訳は訳文が必ずしも読みやすいとは言えなかったが,原文はとても明快.翻訳書を手に取る必要はない.グールドは学生時代から古生物学における多変量統計学(相対成長論)を専門にしていたこともあり,本書ではこの方面でかなりつっこんだ記述がある.とくに,因子分析に関する第6章については統計学に関する基礎知識があった方が読みやすいだろう.



原書の増補改訂版は15年後に出版された:Stephen Jay Gould『The Mismeasure of Man, Revised and Expanded Edition』(1996年刊行,W.W. Norton, New York, 444 pp., ISBN:0393039722).改訂の直接の動機は,その前年に出版された,知能の人種差は実在すると論じた大著:R. J. Herrnstein and C. Murray『The Bell Curve: Intelligence and Class Structure in American Life』(1994年刊行,Free Press, New York, xxvi+845pp., ISBN:0029146739)を反駁するためだった.この増補改訂版の翻訳は:スティーヴン・J・グールド[鈴木善次・森脇靖子訳]『人間の測りまちがい:差別の科学史(増補改訂版)』(1998年11月刊行,河出書房新社,東京,567+xxiii pp., 本体価格4,900円, ISBN:4309251072)としてのちに出版され,さらにその後,文庫化された:スティーヴン・J・グールド[鈴木善次・森脇靖子訳]『人間の測りまちがい:差別の科学史(上・下)』(2008年6月20日刊行,河出書房新社河出文庫ク8-1〜8-2],東京,本体価格各1,500円, 上巻: ISBN:9784309463056 [→ 版元ページ] /下巻: ISBN:9784309463063 [→ 版元ページ]).



なお,本書の初版が出版されてからおよそ30年間に本書がどのように受容・批判されてきたかについては,Wikipediaの項目〈The Mismeasure of Man〉を参照されたい.書き手ならばこれくらい半減期が長くて影響力を持ち続けられる本を後世に残したいものである.



三中信宏(2002年6月4日/2011年10月8日加筆)

【目次】※初版翻訳書の目次
謝辞 9
第1章:序文 13
第2章:ダーウィン以前のアメリカにおける人種多起源論と頭蓋計測学 —— 白人より劣等で別種の黒人とインディアン 27
第3章:頭の測定 —— ポール・ブロカと頭蓋学の全盛時代 80
第4章:身体を測る —— 望ましくない類猿性の二つの事例 132
第5章:IQの遺伝決定論 —— アメリカの発明 175
第6章:バートの真の誤り —— 因子分析および知能の具象化 294
第7章:否定しがたい結論 403
エピローグ 420
原注 423
訳注 435
訳者あとがき 439
参考文献 [xii-xxii]
索引 [i-xi]