『今西錦司フィールドノート:採集日記 ― 加茂川1935』

今西錦司[石田英實編]

(2002年12月1日刊行,京都大学学術出版会,京都,8 color plates + x + 164 pp., ISBN:4876986037版元ページ

【書評】※Copyright 2002, 2014 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved



これぞまさしく〈蜻蛉日記〉だ!



どんな形態であれ「日記」を読むのは,ちょっと後ろめたくて,だからこそ愉しい.最近では,インターネットを通じて「哨戒地点」とか「今日のてくてく」とか「社長日録」とか「ぎょーむ日誌」とか,さまざまな「日記」を居ながらにして読めるようになった.しかし,昔の「日記」も捨てたものではない.



今西錦司の「カゲロウ日記」 — 厳密には「日記」というよりも「ノートブック」に近い気がする.ダーウィンの「ノートブック」を想像すれば,ぴったりフィットしそうな「日記」だ.1935年の春先から初夏の4ヶ月に書かれたこの「日記」は,今西が当時カゲロウ研究のフィールドとしていた賀茂川(本書では「加茂川」)水系での「採集日誌」である.



「日記」ならではの個人的な思いが随所に溢れる.単に論文書きや分類専門家ではない自然探求者(Naturforscher: 68)としての「渓流生活者」(p.5)と自らを描く今西は,ひたすらカゲロウを追い求める.カゲロウの学名が頻出する本文ではあるが,カゲロウ学の専門家による詳細な傍注によって,読者の理解は大きく助けられている.この「日記」を何とか世に送り出そうとした関係者の努力が,本書の資料的価値をもたらしたのだと私は思う.



「棲みわけ理論」 — 今西の名とともに知られるこの学説の萌芽は本書に見られる.カゲロウの「life zone」(p.18)の概念がそれである.流域の特性によってカゲロウが「棲みわける」という発想がこの「日記」の中で育まれていったのかと思うとたいへん興味深い.幼虫の移動に関する観察,亜成虫の不思議な潜水行動の発見,成虫の大量死の目撃などなどカゲロウの生活史のすべてを知ろうとする今西の情熱が文面から伝わってくる.植物生態学の概念(たとえば遷移)の動物生態への適用, biosystematics にも通じるような分類群の概念化のあり方など,当時の(今西の)生態学理論の成立事情を垣間見る気がする.



6月の日記は「洪水記」と記されている.賀茂川の歴史に残る大氾濫に遭遇した今西は,その被害の甚大さを眺めながら,「自然は一寸微動した」(p.137)だけなのだとつぶやく.もちろん,その天災は自分にもふりかかってくる.「人間丈でなく,川の虫も自然の微動で姿を消した.われわれの仕事もこれで一旦は中絶である」(p.138) — 「日記」の最後を締めくくるこの言葉は,まさに〈蜻蛉日記〉の象徴ではないか.



欲を言えば,当時の今西と行動をともにした同僚,とりわけ可児藤吉の研究業績とのリンクをもっと明確に示してほしかったと思う.私の手元にある『可児藤吉全集(全一巻)』(思索社,1978)の冒頭を飾る「渓流棲昆虫の生態」(pp.3-91)は,今西の「日記」と深い関係にある.おそらく,今西に啓発された研究はほかにもきっとたくさんあるだろう.そういう周辺の事情を丹念に掘り起こしていくことで,今西はしだいに「対象化」されていくのだと思う.また,細かい点だが,p.64脚注(5)の「独語」は削除されるべきだ.



ぜひ多くの読者が本書を手に取られることを.



三中信宏(2002年12月5日記/2014年5月8日改訂)



追記】復刻源になったノート類は,最近公開された〈The Kinji Imanishi Digital Archive〉の中で「Kamogawa Research 1935」として,すべてデジタル化されている.(20/April/2005)

【目次】
Color plates (8 pp.)
刊行の辞(石田英實) i
刊行に寄せて:今西ノートの背景(吉良竜夫) v
凡例 x

採集日記:加茂川1935
 ・第一冊 March 3
   三月の summary 41
 ・第二冊 April 49
 ・第三冊 May 91
   上高地方面採集記 123
 ・第四冊 June〔洪水記〕 127

解説1 日本の水生昆虫学と今西カゲロウ学(谷田一三) 139
解説2 ノート発見の経緯、執筆時の今西さんのことなど(斎藤清明) 149
関連カゲロウリスト 155
関連水系図 161
索引 162