『私の敵が見えてきた』

多田謡子遺稿追悼文集

(1987年刊行,編集工房ノア,ISBNなし)

29歳で早逝した女性弁護士を追悼する友人・同窓生・同僚たちの寄稿を含む文集.この手の本は故人との関わりについてのパーソナルな想い出が書かれているものなので,内容そのものにとくに関心はない(というか“外部”の者にとっては理解できない部分が多い).ただし,社民党福島瑞穂党首や中西印刷の中西秀彦専務,あるいは松田道雄とか鶴見良行という名が見えるので,まあパブリックといえないことはない(出版当時と18年が過ぎた“今”ではだいぶちがうが).

 

それよりも,たった一つしか年齢差がないこの女性弁護士さんが体験した「時代」は確かにぼくも共有していたので,さまざまな文面の背後に見える時代的な“共通部分”を味わったりする分には疎外感はまったく感じない(そういうこともあったという淡い記憶の浮上).ぼくの実家のあるのは宇治の御蔵山というところだが,三中家が深草からそこに引っ越してきたしばらくあとに,多田道太郎家が近くに転入してきたというのも,母親の言葉によれば「京大のセンセがぎょうさんいやはる」御蔵山の土地柄を考えれば不思議ではない.

 

転入は偶然であっても,当然のことながら多田謡子さんが通った小学校はぼくと同じ地元の木幡小学校で,おそらくまちがいなく廊下ですれちがったりしたこともあるのだろう.ひょっとしたら集団登下校でいっしょだったかもしれない(記憶はまったくないが).しかし,ぼくはそのまま地元の東宇治中学校(京大宇治キャンパスに隣接)に進んだしたのに対し,彼女は中学から“付属”に行かはったので,小学校での約2年の同窓の後はまったく交点はない.接近してはいたが互いに交わりのない,いわば「捻れの位置」にあったということだろうか.

 

急死するまでの弁護士時代の愛称である“アラレちゃん”でも“ダンボ”でもなく,中学時代に呼ばれた“ベトナムおばさん”というニックネームの方がピンとくる.そういう中学生や高校生はあの頃は少数派ではあったが確かにいた.この追悼文集をブラウズしてみて,かつての「時代の空気」を思い出した.

 

追記)今朝の朝日新聞に〈多田謡子反権力人権基金〉の第17回人権賞の受賞者が決まったとの報道があった.グッドタイミング.[2005年12月1日]