『SOKKI!:人生には役に立たない特技』

秦建日子

(2006年4月6日刊行,講談社,東京, 296 pp., ISBN:4062134128版元ページ | ISBN:9784062763646 [講談社文庫] → 版元ページ

【書評】

※Copyright 2006 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved




昨日とても感銘を受けつつ復路車中読書し,今日の昼休みに歩行読了した.もともと小説を読む性癖を持ち合わせていないぼくとしては,この“青春”小説それ自体ではなく,むしろ「ワセダ速記」というテーマとその取り上げられ方に関心が向く.



そう,この本は早稲田大学速記研究会を舞台にした「ワセダ速記」をとりあげた稀有の(ひょっとして初めての?)小説だ.全編にわたって速記文字(「速字」)がばらまかれている.ストーリー展開はいかにもドラマ台本的で,緻密に書き込まれているという風ではない.しかし,たまたま[不純な動機で]大学の速記研究会に入ってしまった主人公が,どのようにして〈速記道〉を極めていくのか,その過程がとても活き活きと描かれている.体育会系のごとく,「なぜそこまで激しく速記してしまうのか」(p. 174)という光景はシンパシーを感じつつ,ちょっと哀しいなあ.



速記という記録技法の需要がもっとも高かった国会でさえ速記者の養成をとうにやめてしまった現在,文化的伝承としての職業的速記はすでに絶滅への道を歩みつつあることは確かだと思う.あとは文化遺産として細々と継承されていくのだろうか.しかし,速記に関連する資料や文献はきっちり蓄積されてはいないという危惧もある.それだからこそいっそう,この小説を読むと,自分の過去の経験をまざまざと思い起こさせる部分が随所にあって,感慨深い.



もう30年以上も前のことだが,ぼくがワセダ速記の「速習課程」の通信教育を始めたのは小学校6年のときだった.中学2年のときにはその課程を修了し,続いて同じく通信教育の「専門課程」に進んだ.当時は相当多くの受講生がいたようで,定期的にスクーリングが開かれ,速記検定に向けての研鑽を積んでいた学習者が少なくなかったようだ.ぼくの記憶では,速記検定は「1級=分速320字/2級=分速280字/3級=分速240字/4級=分速180字/5級=分速120字」というランクに分かれていたはずだ.主人公が繰り返し[彼女?の]朗読を聴き取って,速記練習と日本語書き下し(「反訳」)をするという情景が登場するが,確かにそういう練習を何度もしたことがある.速習課程を修了した時点で「3級相当」の実力がつくはずだったが,さまざまな略記法や簡略文字(「簡字」)を身につけなければ速く正確に速記することはとうていできない.そのためには,専門課程での勉強と訓練が不可欠だった.



高校の1年くらいまでに専門課程のテキストはほぼすべて終わったので,当時のぼくの授業ノートのたぐいはすべて速字で書かれている.しかも反訳文はすべて舊字體だったので,とても“変わった”高校生に見られていたはずだ.検定を受けたことはなかったが,授業の書き取りには不自由しなかったので,分速200字くらいの速記技能はきっとあったのだろう.本書の主人公は大学に入って初めて速記の世界に入ったのだが,ぼくの場合は高校の半ばで速記ワールドを早々と卒業してしまった.「あと十年とか二十年とかしたら滅びちゃう技術なのにね」(p. 284)というような終末論的な予想は,少なくとも1970年代はじめには思いもつかない戯れ言だった.



その後も,自ら速字を使うことはなかったものの,速記に関する本は心して買い求めるようにしていた.しかし,フシギなことにそういう速記本はいったん出版されても次々に絶版・品切れになって店頭から消えていく.今では〈速記〉というキーワードで書籍検索しても,速記法に関する本はほとんどヒットしないはずだ.社会の記憶からもすでに消えはじめ,なかば無形文化財的な扱いを受けつつあるのかもしれない.



0.9mm2B芯の回転式シャープペンシルを速記用にいつも持ち歩いていたので,中学時代からエンピツというものに触れることはまったくなくなった.書かれている文章をみれば「簡字」が脳裏に浮かび,会話を耳にすれば「速字」をイメージするという習性が染み込んでいるので,30年近くのブランクがあったにもかかわらず,本書に綴られている速字文はちゃんと「読めてしまう」.もちろん,多くの簡字の字形や速記法のティップスはあやふやになってしまったし,ところどころ「この略し方は“方言”だろう」という箇所もないわけではない(あるいは,ぼくの覚えている方式がワセダ速記の系譜ではやや祖先形だったのかもしれない).それでも,この本の日本文だけでなく速字文まで堪能できたことで,そして「黒田は「な」「ま」「は」「ら」から,更に傾斜がきつくなり二音文字「ない」「まい」「ない」「まい」と蛇行を続ける舗装路を無視して〜」(p. 193)のくだりで瞬時に大爆笑できたことで,皮肉にも〈SOKKI!〉は今でも役に立つ特技であることが証明されたのではないか.あ,そーすると,「豚に喰われ」てしまうか…….



速記をまったく知らない読者にとっては,本書に描かれているストーリーはきっとアゼンとする世界だろう(フィクションだと勘違いする向きもあるのではないか).しかし,かつて少しでもそういう経験をしたことのあるぼくはリアルな共感を呼び起こされた.氷で腕を冷やしたことはさすがになかったが,書きすぎて利き腕の筋肉が張った記憶を本書を読んで久しぶりに思い出してしまった.



—— なお,著者のブログ〈秦建日子のブログ〉ならびに,早稲田大学速記研究会伝言板馬場の伝言板〉を見ると,この本を原作として TV ドラマ化(あるいは映画化)が射程に入っているそうだ.おそらく「文系版ウォーターボーイズ」となるのはまちがいないだろう.キャスティングは?

三中信宏(24 April 2006)