『プレートテクトニクスの拒絶と受容:戦後日本の地球科学史』書評

泊次郎

(2008年6月2日刊行,東京大学出版会,東京, vi+258 pp.,本体価格3,800円,ISBN:978-4-13-060307-2目次版元ページ

【書評】※Copyright 2008, 2019 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

 

 戦後の科学史を論じた新刊としては比類なくおもしろい.読めば読むほど戦後の地学団体研究会すなわち“地団研”の動きは,同時代だった“ルイセンコ”な人びとのふるまいと連動している(少なくとも類似している)と感じる.戦後間もなくの日本共産党の指導下で進められた“民科”運動と連動したのが,“地団研”であり“ルイセンコ派”だった.前者の「井尻正二」と後者の「徳田御稔」とは当時の科学者コミュニティでの「イコン」としての性格がきっと似ていたのだろう.

 

 いわゆる「マルクス主義科学」が敗戦直後の日本の科学コミュニティに何をもたらしたのかを地質学を題材にして論じたのが本書だ.しかし,ここで論じられていることがらの多くはそのまま同時代の生物学にもあてはまっただろうし,その余波が数十年にもわたって残り続けたという事実も共通しているように思われる.驚くべきは,プレート・テクトニクス理論の受容を執拗に拒み続けた“地団研”の影響が,少なくとも「1985年」までは日本の地質学界では残っていたという著者の指摘だ.

 

 しかし,考えてみれば,弁証法唯物論の残骸は,確かに1970年代(つまりぼくらの世代が大学に入った頃)の生物学ではまだ命脈を保っていた.地質学や生物学が「歴史科学」であると当時の彼らが言うとき,本書の著者が指摘するように,歴史法則主義(sensu Popper)が前提になっていたという.ローカルな記載主義の伝統(とても古いアジア的知脈)を補強するかのように,「日本独自の学問」を頑に求め続けるという姿勢は,地質学でも生物学でも共通していたということなのか.何だかとても深く納得してしまう内容の本だ.

 

 まったくの偶然だろうが,泊次郎の新刊を手にしたちょうどその頃に,長年にわたって“地団研”と闘い続けた都城秋穂がニューヨーク郊外の森林公園で不慮の事故により亡くなったことを知った(→ Times Union).彼の著書:都城秋穂『科学革命とは何か』(1998年1月28日刊行,岩波書店,東京,xvi+331+16pp.,本体価格2,500円,ISBN:4-00-005184-9書評目次版元ページ)は,出版されてすぐに読み,書評を書いたことがあった.この本の中でも,日本におけるプレート・テクトニクス受容を大幅に遅滞させた黒幕として“地団研”が糾弾されていた.

 

 著者は,駒場の学位論文として本書のもとになる論文をまとめたわけだが,詳細な出典への言及とその緻密な解読は,戦後生物学史の一断面を論じた本書が資料としての高い価値をもっていることを示している.とくに,第二次世界対戦後の政治状況と連動した動きが,生物学だけでなく,地質学でもパラレルに起きていたことを本書ではっきりと再認識できたことは最大の収穫だった.さらに,地質学におけるこれらふたつの“学問的&政治的運動”がきわめて長期にわたって(個人的なタイムスケールでは“現代”にいたるまで)持続し,その影響力を及ぼし続けた原因と背景を探る著者の視線は,おそらくそのまま生物学における同時代の「並行世界」でのできごとを掘り起こすときにもきっと役に立つだろうという確信がもてた.この点でも収穫は豊かだった.

 

 何といっても,「地団研」という地質学の団体(学術団体にして政治団体でもある)が,戦後日本の地質学の進展の中でどのような“力”を及ぼしたかを,プレート・テクトニクス理論の受容(拒絶)という事例を中核にして論じている.新しい科学理論が登場したときに,どんな理由を付けてそれを拒絶するかの良質なケーススタディーだ.

 

 第3〜4章で論じられている「地団研」の出自と行動様式,とくに個人崇拝の弊害と団体主義の功罪,そして第6〜7章で概観される「地団研」によるプレート・テクトニクス理論への攻撃ぶりは,単に地質学という狭い科学者コミュニティの中の“嵐”だったわけではない.本書でも言及されている同時代の生物学における「ルイセンコ論争」の経緯とのこわいほどの並行性を連想する読者は少なくないにちがいない.

 

三中信宏(23 October 2008|26 June 2019 加筆)



[付記:2019年6月28日]ここ数日の “地団研” がらみの件で本書をひさしぶりに手に取っている.本書に詳述されている戦後日本の地質学界における「理論軽視」と「個物重視」の傾向は地質学のみの現象ではないからだ.

 

昨年10月に出た考古学論文集へのワタクシの寄稿:三中信宏 2018「歴史科学としての現代考古学の成立 —— 研究者ネットワークと周辺分野との関係について」所収:阿子島香・溝口孝司(監修)『ムカシのミライ:プロセス考古学とポストプロセス考古学の対話勁草書房, pp.151-168 でもこの論点に言及した.最後の節「日本の考古学における「理論軽視」と「個物重視」の問題 —— ミライに向けて」では,日本の考古学と分類学と地質学という畑違いの3分野がたどってきた道のりを振り返るとき,「総合的な体系化に関する一般理論の構築を脇に押しやって,もっぱら個々の事物の蒐集と記載を重視する文化的伝統」(p. 163)がこれらの分野に共通すると指摘した.

 

この「理論軽視」と「個物重視」という思考法を支えてきたのは「原理盲信」という奈落の “闇” だ.ここでいう「原理」とは,陰陽思想(たとえば三浦梅園や安藤昌益)だったり,天台宗華厳経(たとえば南方熊楠や早田文蔵)だったり,マルクス・レーニン主義(たとえば地団研)だったりする.西村三郎は名著『文明のなかの博物学:西欧と日本(下)』(1999年,紀伊國屋書店)のなかで,そのような “超越観念論” 的な思弁は何ものも説明していないにもかかわらず,「説明したような気分,理解したような気分」(西村 1999,下巻 p. 602)という錯覚を生んだ点できわめて有害だったと結論する.

 

泊は最終章の冒頭「日本の地質学界ではなぜプレートテクトニクスの受容が遅れたのか」で次のように総括している:

 

「第一にあげなければならないのは,日本の地質学が地域主義的・記載主義的・地史中心主義的な性格がきわめて強いものとして成長し,日本の地質学の課題は日本列島の地質発達史の解明にある,と多くの地質学者が考えていた点である.言い換えれば,地震や火山などのグローバルな地質現象に感心を示す地質研究者が少なかったことである」(泊 2008, p. 229)

 

原理盲信・理論軽視・個物重視の “三点セット” は日本(を含む東アジア文化圏)での科学を考える上で避けては通れない問題を今なお提起しているようだ.