『民族昆虫学:昆虫食の自然誌』

野中健一

(2005年11月16日刊行,東京大学出版会ISBN:4130601857目次



【書評】

※Copyright 2005 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

全体で200ページほどの分量なので,“里山ハイキング”程度のあっさり感.しかし,内容的にはとてもおもしろく,「食慾好奇心トツゲキ本」ではけっしてない.認識人類学的では必ずしもないが,正しく民族生物学的な本だ.

序論で「自然と人間との関わりの広がりと深まり」(p. ii)について論じることを宣言した著者は,第1章「民族昆虫学の視点と方法」で,それぞれの地域ごとにローカルに成立する在来知識システム(indigenous knowledge system)としての「民族昆虫学」のヴィジョンを読者に示す:




さまざまな人間と昆虫との関わりは,経験的・歴史的に構築されたものであり,環境の特質を反映して築き上げられたものである.その知識と活動の様式の合わさったものが「在来の知識」「民族知識」などと称される「インディジニアス・ノレッジ(indegenous knowledge)」もしくは「インディジニアス・ノレッジ・システム」と見なされる.(p. 6)



著者は,本書の中心的テーマである民族昆虫学を足がかりにして,人間と自然との関わりに対するもうひとつの視座を提示しようとしている:




これによって,昆虫そのもの,人間-昆虫という閉鎖系から,人間-自然関係の議論へと進めていくことができる.これを民族昆虫学の目指すべき目標として掲げたい.(p. 17)



著者はこの目標を掲げつつ,自らのフィールドワークで得た知見について,続く第2章「アフリカ」,第3章「東南アジア」,そして第4章「日本」で論議を展開していく.具体的知見を積み重ねるこれらの章は,単に個別の知見を積むだけではなく,著者の言う民族昆虫学的な「柱」に沿って整列されている.地球上のまったく異なる地域のそれぞれで定着した,人間と昆虫との「馴染み(familiality)」(pp. 41, 180)のようすが語られている.“虫を食べる”という食習慣は単に栄養摂取の点からのみ考えるのは一面的であり,むしろ文化的な嗜好の点からも考察すべきだという著者の主張は説得的だ.(もちろん,たとえば,特別に臭いのきついタガメを好んで料理の香辛料に使うという東南アジアの食文化は,個人的にはすぐになじめるものではないが,それは別の問題.)

第2章「アフリカ−−民族の生活と昆虫」では,南アフリカの昆虫食を題材としている.昆虫という主食ならざる“周辺的食材”が,かの地の食文化の“豊かさ”を可能にしていると著者は言う.第3章「東南アジア−−多様性を利用する」でもまた,昆虫食がこの地域の食文化のレパートリーを増やしていると指摘する.とくに,サゴヤシに食い入るオサゾウムシの幼虫(サゴムシ)をめぐる詳論(料理方法や食味評価)が印象的だ.人間と昆虫との結びつきの諸相がこれらの章から読み取れる.

日本の民族昆虫学を論じた第4章「日本−−地域の生活との結びつき」はとりわけ関心を惹く.まずはじめに,雑誌『昆虫世界』を主宰した名和靖が民族昆虫学の先駆者として再評価されている.というのも,昆虫をめぐる民間の見聞を蒐集した彼の活動を振り返ると:




このような現場からの情報発信ができていたことは,昆虫の分類など基礎科学分野において非職業的研究家に多くを背負っている日本文化の跛行性を示しているという見方(小西,1990)にもつながる.すなわち在野の人々の関心と実践から知識がつくられることが,日本の昆虫学の伝統の礎であったといえる.(p. 135)



というこれまでも繰り返し指摘されてきた点であり,さらにうがってみると:




このような『昆虫世界』誌の視点と実践からなる特徴は,1980年代以降,生物多様性保全と地域開発における地域住民の尊重をベースとして世界的に注目されるようになったインディジニアス・ノレッジ論のそれと同一である.(p. 135)



という文脈に位置づけられるからであると著者は結論する.この見解はとても新鮮に感じられた.

この章の後半では,信州におけるクロスズメバチオオスズメバチの食文化に関する各論が続く.とても「怖い」が,なんだかおいしそうな気がする.

総括的な第5章「ナチュラルヒストリーとしての民族昆虫学」では,昆虫食を,単に食料エネルギーとしてとらえるのではなく,地域に根ざした食文化の中で理解することが重要だという論が改めて提起される.とりわけ重要な点は,人間と昆虫,あるいはもっと一般的に人間と自然とのあいだに成立する「関係性」にあると著者は考えている:




民族昆虫学では,人間と昆虫との関わりは,昆虫と人間という二項対立的な見方でとらえるのではなく,関わり合いを生み出す自然環境・社会環境と実際に関わり合いをもつ人々の意志や都合という状況に応じた,自然と人間活動の相互関連からなる総合的なものであることに注目することが必要である.人間と自然との関係性をとらえる視点に重点をおき,現実の「自然に」生きる人々の知識・生活の場を明らかにすることによって,日常生活における人間-昆虫関係を具体的に明らかにすることができよう.(p. 185)



ethnobiology(そして folk biology)に基礎づけられたこのような論議は,ぼくにはとてもなじみやすく感じられる.

三中信宏(18/December/2005)