『生きていることの科学:生命・意識のマテリアル』

郡司ペギオ-幸夫

(2006年6月20日刊行,講談社[現代新書1846], ISBN:4061498460



【感想】

※Copyright 2006 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved


炎天下の難行苦行で読み通したものの,ぼくのフックに引っかかってきたものは数えるほどしかない.

一般化されたもの(タイプ)と眼前のモノ(トークン)の間には“対立関係”があると著者は言う.そして,一般的概念化によって排除されてしまう「そのもの性」は〈マテリアル〉なるものの〈影〉として立ち現れると考える(p. 4).これって,タイプとトークンに関する心理的本質主義論議と結びつければ,もっとましな説明になるのじゃないでしょうか.“対立関係”と言われてもピンとこない.だって,もともと対立していないんだろうし.タイプとトークンの問題については,ぼくの『系統樹思考の世界』の第1章第2節で論議した.

おそらく著者は,事物や現象に対する「説明」に関して,ある特殊な立場をとっているように見受けられる.




[P] りんごが木から落ちるのは,妖精に引っ張られて落ちたり,りんごが落ちたいから落ちたと考えるより,重力によって落ちる,と考えるのが妥当なのはなぜか.そう考えることによってボールの落下地点を予測したり,ロケットを飛ばせたりできるからだ.力学を導入することで世界を変えていけるから,妥当だったわけだよ.単に解釈するだけなら,妖精でもいいもんね.モノそれ自体の形式を導入して,創造の場に立ち会っていけるよう世界を変える.そうするしかないんじゃないかな.(pp. 195-196)



著者にとっての「説明」というのは,世界に対する何らかの「働きかけ」ないし「行為」なのだろうか.創造するということと説明ということとは別問題だとぼくは考えるので,著者の立場は理解できない.




[P] 本書全体を通して,僕たちの問題は実在論との戦いであり,だけど同時に擁護だったとも言える.主体の側から,独我論的に出発,展開していく.このときどうしてもわたしには自由にできない何ものかが発見されるわけだけど,そこですぐに,「だから世界は実在する」って回収のされ方はしたくない.そういった実在論は,何も生み出さず,生の現場に何も貢献しない.だから僕たちは,実在論と戦う.(pp. 264-265)



明らかに,著者は何ものかに“いらだち”を感じていることは想像できる.やはりここでも,著者は何らかの積極的な「働きかけ」に価値を置くスタンスをもっているようだ.その価値観が何なのかはぼくにはわからない.少なくとも,ある現象に対する可能な説明が複数個あったときに,それらの間の選択を著者のいうようなラインで進める気にはとうていなれないことは確かだ.

例外的に,第4章の「スケルトン」がらみの束(lattice)代数の話はとてもよくわかる.ぼくの『系統樹思考の世界』の第4章でも,まさに同じ話題を掲げ,同じツールに依拠して系統樹を論じているので.

全体として何だかよくわからないのだが,ぼくのフックに引っかかったパーツについてのみ感想らしきものを記しておいた.今後,この本はあるサークルの人たちによって評価されていくのだろうが,それはぼくの関心事ではない.

話し言葉風に書かれていても,わからないものはやはりわからない.互いに語り合っている「Y」(=Yukio)と「P」(=Pegio)の「対話」に聴衆はいない.「Y」と「P」とを無作為に並べかえても内容的にきっと有意な差異はあらわれないだろう(つまり,帰無仮説「Y=P」は棄却されない).それは同一人の中での内省の語りであり,ハープシコードのように他人が聴くために音を発するのではなく,クラヴィコードのように演奏者自らが聴くための音を発していると考えればいいだろう.

ひょっとしたら,この本の文中に,あるいは行間に,読み解くべき「コード」が埋められていて,それをぼくが解読できなかっただけかもしれない.その場合,ぼくは読者に選ばれなかったということだ.しかし,アグリッパの言う「秘匿されし真実」がこの本にはあるというのであれば,もはやともに語ることを得ず.ペギオははたして生きている人間なのだろうかという素朴な疑念が湧いてくる.

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三中信宏(2 July 2006)