『チャップ・ブックの世界:近代イギリス庶民と廉価本』

小林章夫

(2007年7月10日刊行, 講談社学術文庫[1828], ISBN:9784061598287目次版元ページ



【書評】

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チャップ・ブックという「本」が昔あった

17〜18世紀にかけてのイギリスで大流行したという「チャップ・ブック」と総称された貸本に関する歴史書.初めて目にするテーマなのでそそられる.教会・訓話はもとより,旅行記や小説のような文芸作品,家計・金儲けのたぐいの実用書,ジョーク・エッセイ,そして恋愛・不倫から魔術にいたるまで,さまざまな分野のごった煮が特徴だという.いまで言えば,『リーダーズ・ダイジェスト』のような出版物だったのだろうか.しかし,頁数はもっと薄く,パンフレットのような冊子が中心だったそうだ.

本書はたくさんの書影を示しながら,この雑多な「チャップ・ブック」の世界を見渡そうとする.当時は英語の本でも隔字体(gesperrt)が多く用いられていることを知った(現在ではドイツ語にしか残っていないようだが).また,鉄道時刻表に名を残すトマス・クックは,19世紀イギリスを代表する大旅行業者だったと記されている.

第3章では『ロビンソン・クルーソー』を取り上げ,この大作をチャップ・ブックがどのように“ダイジェスト”化したかを論じている.360ページもある元の版を実に「8ページ」にまで圧縮したチャップ・ブックがあるというから驚きだ.続く第4章では,当時はじめて形をなし始めた「児童文学」というジャンルがチャップ・ブックとともに形成されてきたことが示される.誰でも読めるチャップ・ブックの想定読者層に「子ども」を含むという仮定はけっして最初からあったわけではないという指摘が興味深い.チャップ・ブックの読み手である子ども向けに,元来はおとなのための物語だった『ロビンソン・クルーソー』や『ガリヴァー旅行記』が児童文学として書き換えられていったという.第5章では『ロビン・フッド』物語に焦点を当て,韻文のチャップ・ブックがかつて流行したことを振り返る.『ロビンソン・クルーソー』は散文だが,『ロビン・フッド』が歌詞として書かれていたとは知らなかった.古代にルーツをもつらしい伝説が,チャップ・ブックという印刷媒体を通して広がっていくようすが描かれている.

続く第6章はいつの時代にも人気がある「犯罪もの」チャップ・ブックについてだ.とくに,当時のイギリスで制度化されていた「公開処刑」(「タイバーン・フェア」)を描いたルポルタージュがことのほか一般読者には好まれたという.第8章にもこの点について論じられているが,処刑される犯罪者の行状だけでなく,公開処刑当日のようす,処刑後の遺体をめぐる争奪のどたばたまでチャップ・ブックには記されていたという.時代がくだれば解剖学者もきっとそこに混じっていたはずだ.

第7章では,読み捨てに近かったというこれらの大量のチャップ・ブックの匿名の書き手と出版社(パブリッシャー)に目を向ける.挿話の一つとしておもしろいのはアレグザンダー・ウィルソンというスコットランド人の生涯だ.18世紀に生を受けたウィルソンは売れない詩人としてエディンバラでチャップ・ブックを売り歩いていたのだが,にっちもさっちも行かなくなって,アメリカに渡ることになる.ところが,渡米後のウィルソンは生まれ変わったようにナチュラリストの道を邁進し,後に『アメリカの鳥類学』(1808年)を出版し,鳥類学者として後世に名を残すことになった.こういう人生もあるのか.

最後の第8章では,チャップ・ブックをイギリス全土に売り歩いた「チャップマン」が登場する.津々浦々をまわった彼らは,単に本を売っただけではなく,さまざまな情報の運び手として歓迎されたそうだ.しかし,そのように広く受け入れられた「チャップマン」たちも,貸本制度の整備や印刷コストの低減などなどの理由により,19世紀に入るとともに急速に衰退していった.

文庫化された本書の元本は:小林章夫チャップ・ブック : 近代イギリスの大衆文化』(1988年4月刊行, 駸々堂出版ISBN:4397502552)だ.元本は400ページもある大著だが,本文の1/4と参考文献などを省いて文庫化したとあとがきには書かれている.「本の世界」がぐっと広がる好著だ.

三中信宏(5 August 2007)