『一六世紀文化革命(2)』

山本義隆

(2007年4月16日刊行, みすず書房ISBN:9784622072874目次版元ページ



上巻を6月はじめに読み終えてから,2ヶ月も時間が空いてしまった.第6章「軍事革命と機械学・力学の勃興」はタルターリアやシモン・ステヴィンらが主役だ.実用的な技術としての,機械学(静力学)と力学(運動理論)が当時の社会のどのような要請のもとで展開してきたのかを論じる.落体の実験はガリレオに先立ってステヴィンが行なっていたそうだ(p. 406).著者は言う:




天才の世紀たる一七世紀は一六世紀にその助走が始まり,土台の建設が進められていたのである.(p. 406)



本書全体がその「助走」がいかなるものだったのかの解明に当てられている.続く第7章「天文学・地理学と研究の組織化」では,チコ・ブラーエの天文学研究やメルカトールの地図製作を通して,一六世紀の数理技能者(mathematical practitioners : p. 454)の活躍を論じる.そして,かれらの卓越した技術が,軍事や航海,産業など国家の動勢に影響を及ぼすようになるとともに,サイエンスの社会的な位置付けが変わっていったと著者は指摘する:




チコ・ブラーエにフヴェーン島を授けたデンマークの国王も,占星術に囚われていたとはいえ,同時に「科学が国家に威信をもたらし,国の防備を強化することを知悉していた」のである.チコ・ブラーエを生み出してゆく過程は,新しい科学のヘゲモニーが国家ないし知的エリートに移行してゆく過程でもあった.それは職人たちによる一六世紀文化革命の成果が支配階級に属する知的エリートに簒奪されてやく過程でもあった.(p. 503)



上巻ではあまり感じなかったのだが,下巻に進むとしだいに“社会構築論”的な著者の姿勢がしだいに強まってくるようだ.そして,次の第8章「一六世紀後半のイングランド」では,職人技能者による実践的科学技術が“支配階級”に奪われていった典型的なケースとして,十六世紀の英国に目を向ける.

第9章「一六世紀ヨーロッパの言語革命」では,ヨーロッパにおいてそれまで社会的にも学問的にも権威を保ち続けていたラテン語が,“俗語”に取って代わられる過程を本書のテーマと絡めて論じる.ラテン語を操れる社会的階層のみが高い地位を得ていた背景には,「知識はみだりに開示させない」というモットーがあると著者は言う:




このようなヨーロッパの知識層における知の秘匿体質ともいうべきものの根っこは古代にまで遡る.古来ヨーロッパにおいては,神から与えられた真理は不心得者の手に入らぬようにみだりに公にしてはならない,という観念がひろくゆき渡っていた.(p. 571)



初期ルネサンスを代表する知識人ピコ・デラ・ミランドラは,「至高なる神性の秘義を民衆に公にすることは,聖なるものを犬に投げ与えたり,豚の集まるなかに真珠をばらまいたりする以外の何であったでしょうか」(p. 573)とまで言っていた.ところが,16世紀の職人的技能者たちの科学技術の発展は,彼らが日常的に話す“俗語”(フランス語,ドイツ語,英語,オランダ語,イタリア語などを指す)の地位を着実に上げることになった.この「言語革命」が「一六世紀文化革命」と並走していたことに著者は注目する:




地域的な話し言葉であった俗語方言のひとつが他の諸方言を上回る有力言語として規範化され,さらには文法的に整備されて標準化されて「国語」に成長し,それと同時に語彙が豊富化されて込み入った思想表現に耐えるように鋳直され,やがてラテン語使用が絶対的であった領域にまで使用されるようになる過程は,言語革命とも言うべき根底的な変化である.一六世紀文化革命にはこの言語革命が伴っていたのである.(p. 588)



印刷術の普及とともに,言語のシェアの社会的影響力はますます拡大される.16世紀はじめには,ラテン語 vs 俗語の出版比率は6:4だったが,16世紀末にはその比率は完全に逆転して「3:7」になったそうだ(p. 593,図9.3).この言語革命の後押しによって「一七世紀科学革命」が推進されたと著者は言う.

最終章の第10章「一六世紀文化革命と一七世紀科学革命」では,これまでの論議を総括し,16世紀から17世紀への,さらには現代にいたる射程を据える.一六世紀文化革命が知識の世界に与えた大きなインパクトのひとつは,知を秘匿せず,積極的に公開していこうとする姿勢にある:




俗語で執筆した芸術家や外科医や職人や技術者を突き動かしていたのは,伝承されてきた技術だけではなく,研究の成果や実験の結果は公開され社会的に共有され利用されなければならないという思いであった.(p. 661)



しかし,このような“下からの突き上げ”はやがて新しい世代の知的エリート層の出現によってしだいに変質していく.伝統的科学から実践的技術への移行は,17世紀になると再び新しい性格をもった科学への回帰につながっていった:




科学と技術との関係は,一九世紀以降には科学の成果を技術的に応用するという形が通常であるが,一七世紀にはむしろ科学が技術から学ぶ,ないし先行する技術を科学研究にもちいるという形でおこなわれたのである.それは一六世紀に職人や技術者からなされた提起を一七世紀の先進的な知識人たちが受け止めたことに始まる.(p. 686)

一六世紀の段階ではイニシアチブは職人たちの側にあり,技術が先行していた.すくなくとも職人たちにあり,技術が先行していた.すくなくとも職人たちの示した主体性はもっとはっきり認められるベきである.科学者や知識人が職人や技術者の実践を汲み上げたというよりは,職人たちが自分たちの言葉で自分たちの仕事を語ることで,経験知の優位を主張し,自分たちの方法の有効性を学者に訴えたのである.こうして職人たちは,それまで疎外されていた文字文化の世界に越境し,学問世界にかかわっていた.それは「一六世紀文化革命」と称されるに値する知の世界の地殻変動だった.(p. 718)p



しかし,16世紀から17世紀へと時代が移るとともに,知識世界の風景は変わっていった.科学的知識の主導権は再び揺り戻されたからである:




かくして先進的な芸術家や職人や商人や外科医によって推進された一六世紀文化革命は,一七世紀になって,[…中略…]総体として見ればその成果をエリート知識人に引き渡すことによって終焉を迎えることになった.高等教育を受け論証のトレーニングを積んだ知識人たちが経験科学の手法を身につけ,一六世紀に開始された知の世界の変革のヘゲモニーを奪還することによって,科学革命の勝利の進軍が華々しく開始された.(p. 720)



著者は,近代科学の成立に潜む「攻撃性」に着目し,それをどのようにすればいいのかについても議論している(「あとがき」でも述べられている):




近代科学,とりわけ物理学の成功の根拠は,ひとつには人間の感覚を飛躍的に拡大させた観測装置と精巧な測定機器を駆使した実験技術の開発であり,いまひとつはスコラ学の言う「本質」の追究を放棄し,その目的と守備範囲を数学的法則の確定に限定したことにあり,そして第三に,理論と実験を巧妙に結合したことにあった.(p. 707)



著者は,現代科学の「攻撃性」に対抗する手段として,16世紀の技術者たちがもっていた中世的な「自然への畏怖」という観念を再評価しようとする(pp. 713-714).本書の末尾ではこう書かれている:




フランシス・ベーコンのような自然にたいするその攻撃的な姿勢は現在なんらかの歯止めを必要とするレベルにまで到達しているのであって,その歯止めは基本的には自然にたいする畏れに根ざさなければならないからである.(p. 721)