『香りの愉しみ,匂いの秘密』

ルカ・トゥリン(山下篤子訳)

(2008年1月30日刊行,河出書房新社ISBN:9784309252193



著者は“香水の帝王”だそうだ.それだけでもうなんだか“ちょいワル”な雰囲気が匂ってくるのだが,確かに冒頭から快楽的・山師的なアヤシサが行間から香ってくる.もちろん,内容的にいかがわしい本ではけっしてなく,こういう一般向けの本にしては,異様に多くの「分子式」や「化学構造式」が載っている.むしろ,そういう有機化学の詳細な記述と,つくられるアウトプットの使いみちとの落差を楽しむ本なのだろう.

原子一つのちがいが香りを大きく変えるのに,ヒト側の嗅覚メカニズムはよくわからない.化学者としての著者はこの問題に長年にわたって取り組んできた.その香りがどのような言葉で言い表されてきたかといえば:




甘くて,ハーブのようにあたたかく,ややスパイシーな匂いがあり,かなり希釈すると干草のような,ナッツのような,タバコのような香りになる.(p. 35)



まるでマイケル・ジャクソンモルト・ウィスキーを評するときの文章表現のようだが,上の引用は香水の原料の一つである「クマリン」という物質の香りを述べたものだ.シングル・モルトだろうが香水だろうが,人間がそれをことばで言い表すスタイルは収斂するのかもしれない.しかし,もう少しヤバそうな匂いもある.フジェール・ロワイヤルという香水を評して,著者は次のように言う:




私はふいにわかった.これはバスルームのなかだ! この感じは大便,しかも人さまの大便,ディナーパーティに招かれた家のトイレでその空気をかいだときに受ける,かすかに不快な親密さの小さな衝撃だ.(p. 34)



「不快な親密さ」ったって,アナタ…….いずれにせよ,自然の香りを写実的になぞろうとする“フレーバリスト”に対して,この世にない香りを目指す“パフューマー”は抽象画家だそうだ.こんなふうに描かれると,香水の有機化学はまさに現代に遺された“錬金術”の末裔かと思ってしまう.

—— 本書は自伝的な本だが,この著者を主人公にした別の本:チャンドラー・バール(金子浩訳)『匂いの帝王:天才科学者ルカ・トゥリンが挑む嗅覚の謎』(2003年12月刊行,早川書房ISBN:4152085363)という本があるそうだ.“匂いの帝王”とはますますアヤシイ…….