『アラビアンナイト:文明のはざまに生まれた物語』

西尾哲夫

(2007年4月20日刊行, 岩波書店[新赤版1071], ISBN:9784004310716



偽写本と“超訳”が跋扈するアヤシイ本の世界が広がる.ノイズが多過ぎるわ,翻訳者が嘘をつくわ,当時のオリエンタリズムによる歪曲はあるわで,古写本の元をたどるのは容易ではない.

第1章「アラビアンナイトの発見」では,最初の翻訳者であるフランス人アントワーヌ・ガランの事績をたどる.第2章「まぼろし千一夜物語」では,『アラビアンナイト』のさまざまな写本をとりあげ,その真贋も含めて論じる.第3章では,イギリスでのいくつかの英訳版出版に目を移し,児童文学として生まれ変わった『アラビアンナイト』の登場に着目する.東方へのさまざまな思いがオリエンタリズムというかたちをとって,『アラビアンナイト』を徐々に大きく変容させていく.

第4章「アラブ世界のアラビアンナイト」では,物語のお膝元に目を向ける.もともと,アラブ世界では,アラビアンナイトは文学作品としてそれほど重視されてはこなかったらしい.しかし,ヨーロッパでの評判の高さに呼応して,“逆輸入”されるかたちでの再評価がなされつつあるという.第5章「日本人の中東幻想」では,アラビアンナイトが日本でどのように翻訳されてきたのかを論じる.青少年向けの読み物として,また一般読者向けのファンタジー作品として,この物語は日本で受容されてきた.

第6章「世界をつなぐアラビアンナイト」は,アラビアンナイト物語に触発されてつくられた,後世のさまざまな作品あるいは現代に連なる文化現象を概観する.管弦楽曲やバレーをはじめとして,数多くの映画作品,〈ドラゴンクエスト〉のような電子ゲーム,〈マジック・ザ・ギャザリング〉などのカードゲームのように,アラビアンナイトの波及効果はまさに果てしない.その「果てしない物語」として長年にわたって変容して(されて)きたアラビアンナイトのもつ性格を“オリエンタリズム”というキーワードのもとに再び考察しているのが,最終章「『オリエンタリズム』を超えて」だ.

300年前の1704年に,パリでアントワーヌ・ガランの手になる初めてのアラビアンナイト物語抄訳版『千一夜』が出版された.そして,ヨーロッパに紹介されてから300年目にあたる2004年は「アラビアンナイト記念年」に指定され,方々で記念行事が開催されたらしい.

最終章の結びで,著者は日本人にとっての「アラビアンナイト」の中東世界は,今もなおファンタジーの中にとどまっていると指摘する.平均的な日本人のメンタル世界マップでは,中東地域はマージナルにとどまっているということなのだろう.まことに恥ずかしながら,〈月の砂漠〉に歌われたのはアラビア半島だかエジプトの沙漠だと勝手に思い込んでいたのだが,実は千葉の御宿海岸を歌ったものであることを最近知った.マージナルとコアとが微妙に混ざり合うとは実にええかげんな認知地図だ.

—— この本を歩き読んでいるときは,いつもリムスキー=コルサコフの交響組曲〈シェヘラザード〉が頭のなかを鳴り響いていたのだが,ときどきニールセンの舞踊音楽〈アラジン〉も聞こえたりして,それはそれはオリエンタルな匂いが漂う.