『A Victorian Naturalist: Beatrix Potter's Drawings from the Armitt Collection』

Eileen Jay, Mary Noble, Anne Stevenson Hobbs

(1992年刊行,Frederick Warne & Co., 192 pp., ISBN:0723239908目次

【書評】※Copyright 2008 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved



20世紀はじめに『ピーター・ラビット物語』を世に送り出し,世界的に有名になったイギリスの女性作家ベアトリクス・ポッター(1866-1943)の「菌類図譜」.ポッターは作家としての名声を得る前は,アマチュア生物学者として(そしてナショナル・トラスト運動の推進者として),イギリス湖水地方からスコットランドにかけての菌類と地衣類の研究を長年にわたって続けた.彼女は地衣類における共生関係を初めて指摘したひとりだそうだ.



ポッターは野外採集を繰り返すとともに,みごとな絵を何枚も遺している.本書は,ポッターがアーミット・コレクションに寄贈した多数の菌類の写生(ほとんどがキノコの絵)を230枚にも及ぶカラー図版で載せている.1世紀以上も前の彩色画であるにもかかわらず,保存状態がとてもいいのはもちろん,(変な言い方だが)とても生き生きとしたキノコたちの絵が印象的だ.



ポッターとほぼ同年代の南方熊楠もまた独自のスタイルの菌類図譜を遺している:萩原博光解説/ワタリウム美術館編集『南方熊楠 菌類図譜』(2007年9月25日刊行, 新潮社, ISBN:9784103055518目次版元ページ).熊楠のきのこたちは“弾けて”いるのに対し,ポッターのきのこはいたって物静かだ.



本書の中でも格段に厚い章:Mary Noble「Beatrix Potter and Charles McIntosh, Naturalists」(pp. 55-138)では,アマチュア植物学者としてのポッターの活動を同時代人たちとのつながりに光を当てながら明らかにしようとしている.彼女の限られた交友関係の中でも,チャールズ・マッキントッシュ(1839-1922)とのやりとりがポッターの研究活動にとっては重要だったという.やはりナチュラリストとして同じフィールドで活動していたマッキントッシュとの書簡や標本の交換を通じて,菌類学に関する情報を得ていたらしい.



ポッターとの間でこのようなやりとりがあったことは,半世紀の長きにわたって開封されなかったマッキントッシュの資料箱を調べてみて初めてわかったという経緯がある.さらにいえば,ポッターのキノコ絵もまた,アーミット・コレクションへのポッター自身による一括寄贈ののち,実に数十年もの間,人知れずそのまま保管されていたらしい.大きな損傷がないことはもちろん,年月による褪色もない保存状態のよさはそのためだったとのことだ.このアーミット・コレクションを創立した三姉妹もまた,在野にあって科学や教育への貢献が大きかったという.ポッターがアーミット姉妹に共感を覚えたのもごく自然なことだっただろう.



ポッターはもちろん“ピーター・ラビット”という世界的キャラクターを産み出したことで今なお有名なのだが,それは20世紀に入ってからの彼女の仕事だった.19世紀の間の彼女の活動の中心はあくまでもナチュラリストのそれであり,本章では1890年代の研究活動を中心に彼女が描いたキノコの絵が掲載されている.



在野でしかも女性の生物研究者というのは19世紀のイギリスの学界では暖かい受け入れられ方はまったく望めなかったようだ.ポッターが自らの研究成果をリンネ協会で発表しようとしたとき,女性による学会発表は認められないという規定により,“代読”という形式でしか論文は読まれなかった.しかも,その後,学会誌への掲載を試みたものの最終的にその希望がかなうことはなかったという.また,王立植物園(Kew)の職業的植物学者との交流も試みたらしいが,冷たくあしらわれたとのこと.とりわけ,Kew の園長だった ウィリアム・ティゼルトン-ダイアーはポッターと面会することすら拒否したという.



生涯唯一の学会へのアプローチがこのような不幸な結果に終わったことに,ポッターは落胆し,その後は女性作家としての新たな道を歩むことになったと書かれている.



ポッターと言えば「子どもの本」の作家というイメージがあまりにも強いが,菌類研究者としての彼女のキャリアに光を当てた本書はその点で認識を新たにする読者はきっと少なくないだろう.さらに,レイチェル・カーソン伝記作家 Linda Lear の手になる新しいポッター伝『Beatrix Potter: A Life in Nature』(2007年1月9日刊行,St. Martin's Griffin,ISBN:0312369344)を手に取れば,19世紀の伝統的イギリス社会の中で在野の女性科学者がどのような境遇に置かれていたかというもっと広い文脈が見えてくるだろう.



なお,版元の Frederick Warne は,ピーター・ラビットを含むベアトリクス・ポッター作のキャラクターを一手に管理している会社らしい.



三中信宏(5 May 2008|29 July 2018加筆修正)