『虫に追われて:昆虫標本商の打ち明け話』

川村俊一

(2009年1月30日刊行,河出書房新社,東京,238 pp., 本体価格1,600円,ISBN:9784309019031目次版元ページ

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かつて19世紀の「プラントハンター」たちは,身の危険も省みず,珍奇な植物をもとめて危険な地域にも飛び込んでいったという.本書の著者は現代の「バタフライハンター」として生計を立て,東南アジアをはじめインドからヒマラヤ地域を採集旅行してきた.本書の第1章「タイガーヒルに始まる」では,著者は自らの「昆虫少年」としての生い立ちを振り返っている.より珍奇でもっと美麗な昆虫を求めて海外に雄飛するまでの個人史は,続く第2章へのイントロだ.

まちがいなく多くの読者は,豊かな自然と昆虫相に恵まれたこれらの地域を旅してきた“虫屋”の夢のある冒険譚を期待して本書を手にするにちがいない.オビにも「虫にまつわる面白い話満載」と書かれている.しかし,本書の大半(240ページ中の130ページ)を占める「インド獄中記」(第2章)は,そういう軽いお話などではけっしてなく,むしろ映画の題材になりそうなほど“生死を懸けた”数ヶ月間の記録だ.ぼくも最初にこの「獄中記」を読んだときはかなり重い衝撃を受けた.誰一人として頼りにできない場所で,当局から違法行為を犯したとして拘束されたとき,どのように生き延びるのか.国外でのフィールド調査では,ときとしてこういう危険が身近にあるという体験談のひとつだが,この著者はよく生きて日本に戻ってこられたと思う.

「昆虫標本商」という世間的には珍しい生業の日々をどのようにして送っているのかについても文面と行間の双方から伝わってくる.標本商は「商品」としての昆虫(著者の場合はチョウ)を売買する「商人」に徹するべきなのか,それとも昆虫という生き物に好奇心を持ち続ける「研究者」としての側面を堅持すべきなのか.著者自身がその間を揺れ動きながら生きてきた経緯がわかって興味深い.しかし,インドの獄中から著者を救い出した「蜘蛛の糸」は,彼が非合法な麻薬密売人などではなく,「サイエンティスト」であるという証拠の提出だった.

素朴な意味での「虫屋の冒険」をエンジョイしたい向きは,むしろ第3章「昆虫を巡る人々」から読みはじめるのがいいかもしれない.膨大なコレクションをつくってきた有名な昆虫標本商との長年にわたる交際が綴られているからだ.もちろん,彼らの「顧客」たち(プロの昆虫学者も含まれる)とのつきあいにも触れている.著者の言葉を借りれば「虫で食べていく」とはこういうことなのかという達観のような読後感を最後に漂わせている.

本書のいたるところ,著者が追い求めた珍品の蝶のエビソードが散りばめられている.あれだけ危険な目に遭いながら(インドだけの話ではないらしい),蝶を語るときの生き生きとしたようすはそれだけの「魔性」をこの昆虫がもっているからにちがいない.本書を真っ先に手に取るのは,多かれ少なかれ「虫に追われた」経験のある昆虫マニアや昆虫コレクターかもしれないが,“六本足”がお好みではない読者も世の中にはこういう人生があるのかという新鮮な感想を抱くにちがいない.

それにしても,この著者はこれからどのような人生を送っていくのだろう.

三中信宏(20 February 2009)