『ダーウィンが信じた道:進化論に隠されたメッセージ』

エイドリアン・デズモンド,ジェイムズ・ムーア[矢野真千子・野下祥子訳]

(2009年6月30日刊行,日本放送出版協会,東京,8 plates + 609 + 77 pp.,ISBN:9784140813812目次版元ページ

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ダーウィンの生涯を貫く奴隷制度と人種差別への反感

「進化論に隠されたメッセージ」という副題が示す通り,700ページにも達するこの評伝は,今年生誕二百年を迎えるチャールズ・ダーウィンがわれわれ人間の進化に関する研究と考察を進めた真の動機が,「反奴隷制度」と「反人種差別」というきわめて社会的な問題意識にあったことを示そうとしている.著者たちはダーウィンが生まれ育った家庭環境から振り返ることにより,彼が当時まだ続いていた奴隷制度に対してつねに反対の意思を表明していたことを明らかにしている.

興味深いのはまだ若いダーウィン博物学者として活動しようと目指していた19世紀前半,彼が学んだスコットランド奴隷制度と人種差別を支持する側とそれに反対する側の間で激しい論議が戦わされていたことである.これまで光が当てられていない資料を掘り起こすのは著者たちの十八番だが,こういう視点からの掘り起こしはとても新鮮に感じた.とりわけ,ヨーロッパ大陸からの思想の「直輸入先」だったスコットランドの「philosophical naturalists」たち(ロバート・グラントやロバート・ノックス)が人種問題に関心を寄せていたとは意外だった.

ダーウィンが人種差別に反対する立場から生物進化にたどり着いた背景として,伝統的な「家系図」のメタファーがあったというような記述がある.つまり,王侯貴族だけが血縁譜(Ahnentafel)を有しているのではなく万人が系譜をもつ.さらにはすべての生物もまたこの意味で系譜をもち,単一の共通祖先にさかのぼれる.このとき,西洋社会の底流を流れる家系図のイコンの影響がダーウィンにもあったというふうに筋書きが通ることになる.

本書でもっとも印象的な点は,「反人種差別・反奴隷主義」というフィルター(あるいは眼鏡)を通してみたダーウィン進化論史という本書の基調である.しかも,当時は奴隷主義を支持し,人種差別を認める論調の方が優勢だったという社会的背景を無視することはできない.つまり,社会的には劣勢だった反人種差別・反奴隷主義というミッシングリンクでつなぐことにより,これまでうまく説明できなかったダーウィンのいくつかの研究活動の流れが,一貫したストーリーとしてかたちをなしていくところだ.

彼が『種の起源』(1859年)ではわざと書かなかった人間の進化に関する記述を,十数年後の著書『人間の由来と性淘汰』(1871年)に公刊するまでの間に,イギリスとアメリカにおいてどのような人種論が展開されたのかを本書は追跡する.人種差別主義の根幹には異なる人種は起源が別々であるという根強い「多起源論(polygenism)」があった.ダーウィンはそれに反対する「単一起源論(monogenism)」を証明するために,人間とはまったく関係のないハトやイヌなどの動物の育種研究に時間を費やした.そのような地道な研究活動を支えていたのは彼の反人種差別主義だと著者は結論する.

アメリカでルイ・アガシらが中心となって推進した人種差別主義を背後で支えていたのは人類に関する「多起源論」だった.ダーウィンは人類進化を論じるにあたって,当時は形勢不利になりつつあった「単一起源論」の立場から現在見られるような“人種”が分岐したことを説得的に示すとともに,それを説明する因果理論をも提示する必要に迫られていた.単一起源論の証拠として彼がもちだしたのが飼育動植物の変異性とその人為淘汰のもたらす帰結であり,一方,人類進化の説明要因として彼が擁護したのが性淘汰の仮説だった.

著者たちはダーウィンが進めたこのふたつの研究上の関心は「反人種差別」という深層動機によって初めてうまく説明がつくと主張する.そして,ダーウィンが満を持して世に問うた『人間の由来と性淘汰』(1871年)が,比較的薄い人類進化の第1部(約250ページ)とアンバランスに厚い性淘汰の第2部(約600ページ)という構成になっている理由も,当時の人種論の趨勢の中でダーウィンが取ろうとした立場,そして彼の同僚の科学者たちが人種問題に対してどのような態度を取っていたかを考えればわかると言う.確かに,反奴隷主義・反人種差別というめがね(=フィルター)を通して,さまざまな証拠を拾っていくと,著者らの物語りは強い説得力を帯びている.

種の起源』ではヒトの進化については意図的に伏せられていたが,人種論に湧くイギリスとアメリカでは誰もが『種の起源』をヒトの進化を論じた本としてページをめくったという.しかし,人種論争はいっこうにおさまらず,ダーウィントマス・ヘンリー・ハクスリーは声高な人種差別主義者たちにさんざん叩かれる.信頼していた師(チャールズ・ライエル)や友人(ジョゼフ・フッカー)や知人(アルフレッド・ラッセル・ウォレス)たちが次々に「転向」していくのを横目に,怒れる「大魔神」と化したダーウィンは十年あまりの雌伏ののち,最終兵器である『人間の由来』を世に問うことになる.

この『人間の由来』の出版をもって,まだ若い1830年代以降ずっと奴隷制度と人種差別への対決意識とともに歩んできたダーウィンの旅路は終着地にたどり着いた.著者たちは本書の最後のパラグラフで彼の旅路を次のように要約している.


彼[ダーウィン]が人種の単一性を証明するために取り組んだ科学は,いまでこそ宗教と切り離されて考えられているが,ダーウィンに近しい人々には人類多起源論者の奴隷制擁護のメッセージに対抗するものであることがわかっていた.(p. 595)

著者たちはダーウィンに関するさまざまな資料を縦横無尽に利用するだけでなく,独自に周辺の未発見資料まで掘り起こすことにより,新たなしかも人間臭い「ダーウィン像」を輪郭鮮やかに描き出すことに成功している.伝記としての叙述の見事さはダーウィン伝記作家として定評のあるこの二人の著者の力量を読者に見せている.原書が刊行されてまもない翻訳出版だが,読みやすい訳文とていねいな訳注により日本の読者はタイムラグなくこの評伝を読むことができるだろう.

たいへんボリュームのある伝記だが,今年出版されたダーウィンを記念する多くの本の中でも,とりわけおすすめの一冊である.惜しむらくは原書の詳細な索引が訳本に含まれていないという一点だけである.

三中信宏(23 July 2009)



原書:Adrian Desmond and James Moore『Darwin's Sacred Cause: How a Hatred of Slavery Shaped Darwin's Views on Human Evolution』(2009年1月28日刊行,Houghton Mifflin Harcourt, Boston, xxii+485 pp., ISBN:9780547055268 [hbk] → 目次版元ページ).