『社会生物学論争史:誰もが真理を擁護していた』第2巻

ウリカ・セーゲルストローレ

(2005年2月23日刊行,みすず書房ISBN:4622071320



第14章「科学の本性についての対立する見方」と第15章「論争につけこむ」を読了.60ページほど.とてもおもしろい.前章に続いて,社会生物学批判派(ならびに反IQ運動)を率いたルウォンティンの科学観をさらに分析する.実験科学的な方法こそ「善き科学」の本来のあり方だとみなす彼の(そして批判派の)立場からすると,進化生物学や行動遺伝学で実行されているモデルに基づく立論やさらには統計学的な推論まで含めて「容認されざる行為」という判決を下されることになる.これは,事実関係のレヴェルでの違いなどではなく,認識論のレヴェルでの断絶があったのだと著者は言う.

こうした研究者[社会生物学者ならびに行動遺伝学者]にとって,モデルづくり,統計学,その他は,最終的な目標に達するための暫定的な方法であった.測定は実在の現象に近づくための間接的な方法であった.しかし,批判者にとっては,科学的成功の秘密を握っているのは実験的な科学だけであり,「非実在的な」前提と統計的数式に基づいたモデルではなかった.(p. 482)


グールドもまたこの点ではルウォンティンと同じ歩調を取る.『The Mismeasure of Man』の中で,彼がIQに反対する論拠の核心は:

統計学的な構成物であるg[一般知能]の「物象化」だという主張を行なった.グールドによれば,gにかかわる問題は,明らかに多次元的な概念である知能を,単一の次元に還元し,さらに,それは人工物であるがゆえに,根底に横たわる物理的実在性を明らかに表していなかったことであるという.グールドがとりわけ嫌悪したのは,「単なる一要因の存在が,それ自体で,因果的な推論のライセンスが与えられると仮定する慣行」だった.(p. 487)


グールドがここで批判している,統計手法としての因子分析(あるいはその延長線上にある共分散構造分析)は,潜在因子に基づく統計的モデリングの手法であって,それぞれの因子が「物象化(reification)」されるかどうかはどうでもいいことだとぼくは理解している.しかし,グールドはそれこそが問題であると言う.統計学を知らないはずがない(というか,大学院生の頃から因子分析に通じていたはず)の彼がそういう発言をする真意がよくわからなかったのだが,ルウォンティンの(ならびに批判派に共有されていた)科学観の文脈のもとであらためて考えてみれば確かによく理解できる(というかそれ以外の反論の立て方はなかったとさえ言える).もちろん,ここで批判された心理学者アーサー・ジェンセンが当然の反論をしていることを著者は見逃さない:

実際には,グールドが「物象化」だと誤解しているものは,任意の領域の内部で観察される関係を説明するために,説明的なモデルや理論を仮説としてつくるという,あらゆる科学に共通の慣行にほかならない.……それならば,グールドは,観察できる現象の因果的な説明に関して仮説的な構成物あるいは何らかの理論的な推論を用いるというあらゆる科学に共通の権利を,心理学が使うことを否定するというのか.(pp. 487-488[ジェンセンからの引用])


批判派は「真の因果関係」(p. 488)を見いだすことに科学の目標を置いたと著者は指摘する.単に,モデルづくりや統計分析では相関関係はわかっても,因果関係には到達できないだろうという見解である.本章の後半で論議されている「還元主義(reductionism)」をめぐるごたごたもまた,批判派が方法としての「還元主義」を存在論としての「還元主義」と同一視したという事実を軸に理解することができると著者は考えている.確かにそうかもしれないね.

第2部の最後にあたる第15章は,社会生物学論争を通して,「最適化戦略家」たる科学者たちの動機づけと収穫物を探っている.推進派にしろ批判派にしろ,科学者たちはその論争を通して「何を得た」のかという点について,著者は推進派は「科学」の領域で利益を得たのに対し,批判派は「道徳」の領域で社会的認知を獲得したと結論する.