『社会生物学論争史:誰もが真理を擁護していた』第2巻

ウリカ・セーゲルストローレ

(2005年2月23日刊行,みすず書房ISBN:4622071320



第3部の続き−−第17章「論争による真実:社会生物学論争とサイエンス・ウォーズ」.社会生物学論争と「サイエンス・ウォーズ」との関わりについて論じる.ウィルソンは,グロス&レヴィットの反ポストモダン科学論本『高次の迷信』(1994年)に同調して,科学を擁護する発言をしていたが,社会生物学を推進してきたウィルソンの立場と,反ポストモダン陣営との間には無視できないズレがあった.というのも,反ポストモダニズムはグールドを自分たちの陣営に引き入れたからだ(ルウォンティンは無視された).一方,ポストモダン科学論を推進してきた左翼から見ると,グールドやルウォンティンは「古い世代のマルクス主義者」と見られ,距離を置かれたという.このごちゃごちゃしたストーリーは何とかならないのかな.著者の意図とは裏腹に,社会生物学論争と「サイエンス・ウォーズ」は絡めて論じない方がむしろよかったのではないか.

第18章「啓蒙主義的探求の解釈」は,ウィルソンの著書『コンシリエンス』をめぐる話題を集める.諸学問の「統一(unification)」を求めるこの本は:

ヒューウェルにとって,コンシリエンスが異なった科学分野からのさまざまな説明の結合を意味したとすれば,ウィルソンにとってコンシリエンスは,それ以上のものを意味した.それは,知の単一性,それも,とりわけ特定のタイプの単一性を意味した.ウィルソンは普遍的「コンシリエンス」すなわち,知の統合に向けての探求をはるか遠く啓蒙主義の時代にさかのぼって跡づけた.(p. 608)


という.著者は,ウィルソンの主張に沿って,『コンシリエンス』の意味を説いているが,もっと至近的に,それは近代の「統一科学運動(the Unification of Science Movement)」の一環だったという解釈もあり得たのではないか(V. B. Smocovitisのように).動機づけはともかく,ウィルソンが進化学を中核とする諸学の統一を目指していたことは明白だった:

『コンシリエンス』は,実際に,さまざまな形で,自然科学と人文科学が進化生物学の信条のまわりで統一することを強く説いていた.(p. 633)


著者は,ここにウィルソンの社会生物学が目指していたものと「統一科学」との連続性を見いだす.

続く第19章「科学的真理と道徳的真理の緊張関係」では,著者の見解が前面に出されている.著者は科学理論のもつ“道徳的影響”を重視してきた:

自然主義的誤謬といった事柄についてのおしゃべりは学者にとってのもので,自らの生き方の指針を必死になって探し求める人々にとってのものではない.進化生物学が,少なくともこうした種類の推論から身を守る訓練を受けていない人々,あるいはそれに代わるべき確固とした道徳的枠組みをもたない人々にとって,暗黙の道徳的/政治的メッセージをもっていることは疑問の余地がない.(p. 648:訳では「道徳的/道徳的」となっているが間違いだろう)


この認識の上に,著者は進化生物学の戦略を三つに分ける(p. 652):1)科学を価値から切り離す;2)科学を積極的に価値と結びつける;3)望ましい社会的価値をもつような科学をつくる.

第3の選択肢の例として,著者は最近の群淘汰モデル(具体的には Sober & Wilson『Unto Others : The Evolution and Psychology of Unselfish Behavior』)を挙げる:

ソーバーとウィルソンの群淘汰への忠誠心は,科学的真理と道徳的/政治的真理の結合というハイパー啓蒙主義的探求の好例かもしれない.(p. 666)


??? 本当にそうか? 最近の「群淘汰」理論の復活が,結果として一部の人々に「大きな慰め」(p. 664)を与えているのは事実かもしれない.だからと言って,それを目指しての理論構築というのはおそらく深読みし過ぎだろうとぼくは思う.しかし,全体として本章には傾聴すべき論点がいくつもある.

科学の潜在的な意味合いをめぐる道徳的/政治的論争をすることがとるべき唯一の方策かもしれない.(p.676)


まさにこの主張が,次の最終章の基調となる.

第20章「魂を賭けた闘い:そして科学の命に懸けて」は,社会生物学論争の全体を「道徳的/政治的」な関心(懸念)をめぐる論争だったと総括する.それは決して否定的意味においてではなく,むしろ積極的意味において述べられている点が著者の見解の特徴だ:

社会生物学論争は,道徳的/政治的懸念に満ちあふれていた.・・・ しかし,まさしく,道徳的懸念が含まれていたという事実が,社会生物学に有益な効果を及ぼしていたかもしれない.それは,この発展中の分野を,まっすぐな狭い道に保つことはなくとも,少なくともある種の引き綱に−−方法論的・認識論的に−−つなぎとめてきたのかもしれない.(p. 704)

私は,道徳的/政治的懸念が,解消されるべき障害というにはほど遠く,実際には,この分野における科学的主張の創出と批判の両方における原動力であり,そのゆえにこの分野はよりいいものになったということを,主張しているのである.(p. 707)


こういう表現って科学社会学の定番スタイルなのかもしれないが,「下界を見下ろす」ようなものの言い方をするなよなっ.まあ,そういう延髄反射的に正しい感想は別にして,社会生物学論争の勝者はウィルソン陣営でもルウォンティン陣営でもなく:

社会生物学論争における真の勝者は進化生物学そのものかもしれない.(p. 544)


という締めくくりの言葉はまさにその通りだと思う.この大作「社会生物学オペラ」の結末を飾るモノローグとしては実にふさわしい.(嵐のような拍手.果てしなく続くカーテンコール,……)

以上で,この本の書評パーツがやっとそろった.それらを組み合わせた総括書評はこれからね.