多和田葉子
(2003年8月21日刊行,岩波書店,ISBN:9784000222662)
抜き書きをいくつか.
「母語の外」に泳ぎ出て,帰川することなく,回遊し続ける“魚”である著者のエッセイ集.まずは聞き慣れないタイトルの由来から:
それにしても,エクソフォニーという言葉は新鮮で,シンフォニーの一種のようにも思えるので気に入った.この世界にはいろいろな音楽が鳴っているが,自分を包んでいる母語の響きから,ちょっと外に出てみると,どんな音楽が聞こえはじめるのか.それは冒険である.(p. 6)
今でこそ“Exophonie”というタイトルの本が出るほどになったが,著者自身,「母語の外に出た状態一般を指す」(p. 3)この言葉を初めて耳にしたのは最近のことだという.日本語とドイツ語での文筆活動を続けている著者のスタンスにはとても興味がある:
わたしはたくさんの言語を学習するということそれ自体にはそれほど興味がない.言葉そのものよりも二ヶ国語間の狭間そのものが大切であるような気がする.わたしはA語でもB語でも書く作家になりたいのではなく,むしろA語とB語の間に,詩的な峡谷を見つけて落ちて行きたいのかもしれない.(pp. 31-32)
つまり:
わたしは境界を越えたいのではなくて,境界の住人になりたいのだ,とも思った.(p. 35)
多言語の「境界」をめぐる話は続く.横道だが,あたかも家系図のように分岐する複雑なドイツ語を書いたというハインリッヒ・フォン・クライストというロマン派作家がいたそうだ(エッセイ2「ベルリン:移民地の呪縛」).
エッセイ7「バーゼル:国境の越え方」.スイスのドイツ語は,ドイツのドイツ語と比較して,東京語と沖縄語ほどもちがいがあるとのこと.その一方,スイスのフランス語はフランスのフランス語と“有意差”がないそうだ.ここで,一言:
母語の外に出ることは,異質の音楽に身を任せることかもしれない.エクソフォニーとは,新しいシンフォニーに耳を傾けることだ.(p. 77)
さらにもう一言:
あらゆる境界線は越えられるためにある.(p. 83)
「翻訳」という行為に“誤訳”は宿命的についてまわるという点について:
誤訳という荷物を背負わずに旅はできない.(p. 129)
癒されるなあ.で,さらにもう一言:
訳者は絶えず決断を迫られ,一つ決断する度に少し血が流れる.翻訳者は傷口をむき出しにして走る長距離走者のようにものかもしれない.走る方はつらいが,観客にとって傷を指さすことは簡単だ.(p. 130)
痛たたたっ…….とぼとぼと歩む翻訳者のひとりとしては,ときどき挫けて「早く“タオル”が投げ込まれないかなあ」と思うことも少なくない.
狭く解釈するならば「エクソフォニー」は「ことばの外」であり,著者の言わんとするところを汲むならば「ことばとことばの間」ということになるのだろう.しかし,読んでいくうちに,この本が描いている“境界空間”のありようは,ことばだけの問題ではないことが感じ取れるだろう.