『ことばの経済学』

ロリアン・クルマス[諏訪功・菊池雅子・大谷弘道訳]

(1993年12月1日刊行,大修館書店,東京,xii+485 pp., ISBN:4469211818目次版元ページ

ある国の言語と経済の関連性を論じた第1章にマハトマ・ガンジーの引用がある:

  • 「我が国の青少年が,英語をまるで我々の母語でもあるかのように学ぶために費やす時間とエネルギーを考え,掛け算して,我が国がこのようにして失う年月とエネルギーを単純に計算してみるとよい」(pp. 46-47)
  • 「彼[ガンジー]には日本が模倣に値するお手本と映った.日本ではインドと違って,教育の言語として外国語が用いられず,西欧が提供しうるすべてのものが,自国語に翻訳されている.このようにして,「[日本人は]エネルギーを節約している」」(p. 47)

しかし,著者は「この西洋の知識を受け入れることのできる,あるいはそれに形を与えることのできる言語が存在」していないのが,「大抵の発展途上国の言語問題が持つ本来の経済的次元なのである」(p. 47)と指摘する.

言語のもつ「経済的側面」を規定する要因について議論した第2章に進む.

  • 「言語集団の絶対的な大きさのほかに,一つの言語が機能的に分化している場合,その地政学的位置,そして言語的ではなく政治的に規定されたグループとの関連における相対的な大きさも問題になる」(p. 70)※単に話者数の問題では決まらない複雑さが潜むということ.
  • 「一つの言語のために存在する辞書を,価値指標と見なすことは,単にぼんやりした比喩的な意味だけではなく,まったく文字通りの意味で理由がある.この見方は,二つの観点で啓発的である.まず,ある言語の有する二言語辞典全体は,この言語を他の言語と関係づけるために,どれほど多くの精神的・経済的出費がなされたか,あるいはなされつつあるかを示す.二言語辞典はまず第一に翻訳のための道具である.ここから,すべての言語の「あちら→こちら辞典」は,他の言語集団に対する言語の相対的価値を示すという第二の観点が出てくる」(pp. 90-91)
  • 「辞書について行った考察は,より広い意味では翻訳にも当てはまる.言語を社会全体の財産と考えるならば,翻訳はこの財産の価値を維持し(あるいは高める)ための長期借款と理解できる.ある言語で翻訳が一つ出版されるたびに,その言語に価値が付け加わる.したがって,一言語への翻訳過程の総体を,もう一つの価値指標と見なすことができるのである」(p. 92)
  • 「日本人は,他の言語で表現された知識または文学作品への戸口を自国語のなかに開いておき,このようにして日本語を絶えず最新のさまざまな要請に対応させるため,翻訳に対して多大な出費を投入する用意があり,能力がある」(p. 92)
  • 「規範化と絶えざる術語改新によって,自由自在な翻訳能力を保証することは,国民経済上の切実な要求である.…… 高度に発達した諸言語からの翻訳がたやすく行われないような言語は,経済的見地からは,自由に交換できない通貨と同じく,低く評価されるのである」(p. 93)
  • 「辞書と翻訳に関して行った研究は,一つの言語の価値が他の言語の価値に応じて定まるということ,つまり言語が市場価値を持つということを示す.これは一つの言語が商品として持つ交換価値である」(pp. 93-94:太字みなか)
  • 「言語の商品性は,外国語習得あるいは外国語教育の分野でもっとも明瞭に現れる」(p. 94)
  • 「当然のことながら,このような言語産業は,世界の諸言語のうち少数の選ばれた言語,しかもまさに需要のある言語,つまり経済的な価値が高い言語に関してのみ存在する.したがって言語の経済的価値のもう一つの指標は,その言語を生活の糧にしている人々の数である」(pp. 94-96)
  • 「今世紀,英語がかち得た抜きん出た地位は,この関連を明らかにしてくれる.英語が普及するのに与って力があったのは,けっして第一義的な,この言語に内在する特性ではなく,普及するにつれて,絶えず高まって行った英語の使用価値である」(p. 97)
  • 「英語は,この規模のなかにはっきり現れているように,すべての言語の最重要通貨にのし上がった」(p. 98)
  • 「一つの言語が外国語として学習される規模は,その国際的な価値評価の表現である.別な言い方をすれば,一方では,世界中で,一つの言語を教えるために国民総生産のうちどれくらいの割合が支出されるかということ,また他方ではさらにその業績バランスシートが,その言語の経済価値の重要な指標なのである」(p. 104)
  • 「国際的な職業上の野心を持った個人にとって,外国語としての英語はすでにしばらく前から,そしてまたおそらくは長い目で見ても,もっとも確実な投資である.とはいえ,母語以外の別の言葉をマスターすることが重要な要素であるような職業についている人々の数は,たしかに上昇しつつあるが,比較的少ないことを見過ごしてはならない.もちろん,これは大部分,相対的に高い収入と結びついている職業である」(p. 108)

次の第3章は,言語施策がどれくらいの経済的負担を伴うのかについて具体例とともに考察している.

続く第4章は少数言語の保全について.日本におけるいまの英語教育の経済的側面とか失敗したアイヌ語政策への言及もある.全体の論調として,言語のもつ経済的側面を考えると,ほとんどすべての保全言語活動は失敗するよう運命づけられているという悲観論が色濃い.

その悲観論の背景にある著者の基本認識は,第5章において,言語それぞれのもつ「経済性」の観点から論じられる.「これはまったく明白なことなのに言語学者が扱いたがらない事実,すなわち言語はどれも同じではないこと,その話し手にとってみんな同じくらいに能率がよいというわけではないということを言ったまでである」(p. 344)と本章末で著者は言う.文化相対主義者の言説とは裏腹に,言語はけっして平等ではないというと著者は主張している.

最終章の第6章では,言語間のこの不平等性を “適応” という観点から解明しようとする.メモをいくつか:

  • 「文化相対主義の傾向を持つ言語学者の考えに従うと,ふつう,ことばはすでに十分に適応しているものということになる.こうしたものの見方をすると,あることばは他のことばよりも,よりよく適応している」(p. 350)
  • 「個々のことばを相対的な効率の面から比較する概念的,理論的手段がこれまで存在しなかった原因の一つには,社会的平等をめざす秩序倫理にそわないそのような考え方に対する嫌悪感がある」(p. 351)

この文脈で,著者は「世界語」としての英語に関して次のように述べる:

  • 「英語の普及の原因がただ一つではない点は明らかである.第4章で述べたように,むしろこれは,さまざまな社会経済学的,政治的,文化的要素が絡み合って起きたものである.ここで疑問となるのは,この複合的な理由に言語の特性も一枚かんでいるのだろうかということである.すなわち英語が広く普及するようになったのは,英語の構造的な特性が適応性,適応能力の点で大いに発揮されてのことなのだろうか」(p. 386)
  • 「英語が次の世代でも,最も適応度の高い,最も普及した言語であり続けるだろうと予測しても大きな間違いにはならない.その最大の理由は,英語が細分化した言語であり,世界経済の統合を推し進めるのに役だっていること,同時に,全世界に英語が普及することによって,英語の細分化がさらに進んでいることである」(p. 393)

この経済学的な観点に立つかぎり,マイナーな言語はこれからも逆風に吹きさらされることになる.最後のパラグラフで著者は自説の要点を確認する:

  • 「社会は必要なコストを負担し,個々の言語とその総語彙の保全,強化のために投資している.と同時に場合によっては役に立ちそうもない言語を切り捨てている.こうして言語と,それを使用する者たちの社会の分化度と統合度の間に相互作用が生まれる」(p. 395)
  • 「今日,世界の言語地図を塗り替えるのは,ひとえに言語の経済性である.」(p. 396)

通読してみて,ところどころ「これじゃあ,身も蓋もないなあ」と嘆息してしまうんだけど.「それが “経済言語学的に見る” ということだ」と反論されるかもしれないが.