『国字の位相と展開』(1)

笹原宏之

(2007年3月31日刊行, 三省堂,東京,885+46 pp., 本体価格9,800円, ISBN:978-4-385-36263-2版元ページ

そろりそろりと進みだす.明らかにタダモノではない著者の自画像は:


思えば,些細な契機により小学生にして漢和辞典を眺める癖を覚えて音訳表記の抜き出しを始め,漢文を習わない段階で諸橋轍次先生の『大漢和辞典』を購入したのが中学生の時であり,高校に入ると杉本つとむ先生の『異体字研究資料集成』を揃え,それに触発され,種々の資料から国字を抜き出して辞書・索引のようなものを作り始めた.中国を中心に据えて漢字圏全体の漢字及び漢字系派生文字について学ぶことを志し,早稲田大学第一文学部に入ってからは中国文学専修に籍を置く.(p. 881)

と「後記」で描かれている.著者は,生い先いみじう見えし頃から文字通りの“天職(calling)”を自分でつかんでいたということなのだろう.すごいなあ.

ぼく自身も中学の頃から漢字の舊字體に凝っていて,高校に入った頃に書いた文章やノートや答案はすべて舊字體で記していた.その後,西田龍雄の「西夏文字」本の影響をもろに受けて,しばらく西夏文字にのめり込んでいたこともあったが,ひょっとしてそのラインを突き進んでいったとしたら“別の人生”があったのかもしれない.

「序」を寄せている野村雅昭は:


世に,漢字少年や漢字博士と称される人は少なくない.しかし,その人が優れた漢字研究者になったと聞いたことはない.氏は,そのまれなる一人である.(p. vii)

と記している.余人をもって代え難しということか.

序章「研究の目的と方針」と第1章「国字の定義と分類」を読み進む.著者は“語”に関する「語誌」とその語を表記する“字”に関する「字誌」とを区別した上で,従来の国語学では「語誌」の研究の深まりに比べて,「字誌」は未探究の課題がたくさん残されたままであると言う.本書の中心テーマである「国字」の定義に関しては:


「国字」は,第一義的には,日本人が漢字に倣って作製した文字を指すものである.(p. 43)

という簡明な定義を置く.しかし,「国字」としての条件を満たすかどうかの検証はけっして容易ではなく,表現型的には“国字”のような外見であっても,実はそうではないケースが多々あると著者は指摘する(p. 45).「佚存文字」あるいは「暗合/衝突」と著者が呼ぶケースがその例にあたる.

「佚存文字」(第1章第3節第1項)は,もともとは中国にその字体があって,日本に伝播してきたのだが,中国ではその字体が失われて後代に伝わらず,結果として「日本固有の字体」のように見えるものを指す.たとえば,ある地域に生物Aが分布し,他の地域にはいないときであっても,その生物は「その場所で」進化したと言い切るのは相当に勇気のいることだろう.姉妹群を含む系統的な近縁群のなかでの生物Aの位置づけがあってはじめて,歴史生物地理学的なシナリオ(vicariance / dispersal あるいは ancestral area)がテストできるからだ.しかし,伝統的な国字論では,日本にしか存在しない字体Aは即「国字」であると誤って判断してしまう事例が少なくないと著者は指摘する.しかし,mother land たる中国の古い漢籍を調べてみると,実は字体Aは“made in China”であって,伝播によって日本に到達したものの,母国では死字となってしまって伝承されなかったと推測される場合があるという.著者はそのような字体を「佚存文字」と呼ぶ.たとえば,「匁」や「塀」は佚存文字の例だそうだ.生物地理学でいえば,phylogeographic tree の末端OTUだけが残存してしまって,その ancestral area に関する推論を誤ってしまう場合に相当するのだろう.


もう一つの「暗合」と「衝突」(第1章第3節第2項)は,字形がたまたま一致するという現象に関係する.いずれも,系統学的に置き換えれば,漢字字形の系統関係のコンテクストを踏まえたときに生じる homoplasy とみなせる.

著者の定義によると(p. 116):



「暗合」=個別的な字体変化,造字による同一字間の字体の一致

「衝突」=個別的な字体変化,造字による別字間の字体の一致

となる.「暗合」と「衝突」は,いずれも共有派生形質(synapomorphy)として説明できる一致性(仮想共通祖先漢字に帰せられる相同性)としてではなく,個別の漢字系譜において生じた homoplasy(非相同性)として説明されるという共通点がある.

「暗合」と「衝突」とを厳密に分けるのが難しいことを承知の上で言えば,同一字間のパラレルな homoplasy である暗合は「parallelism(並行進化)」に,そして別字間に生じる homoplasy である衝突は「convergence(収斂)」に相当する概念だろう.暗合の例としては「閠」が,衝突の例としては「暃」が挙げられている.さらに,暗合と衝突が併存する場合もあるという.

これと関連して,形質置換(character displacement)という生物進化プロセスがあるが,それに相当すると推測される形質の分化的変化が国字にも観察されている:


「王」と字体が酷似した「ギョク」「たま」を表す字には,区別のために「ヽ」を加えて「玉」となった例のように,類形ないし同形の二つの字がともに使用頻度数が高い場合,衝突を回避するために字体の差別化,示差特徴の強調を行うことがあり,字体変化の一因としても重視すべき現象である.(p. 120)

著者は,このような「国字」をめぐる定義上・概念上の問題の数々,そして字体間の系統関係を推論する際に生じ得るさまざまな過誤の原因を列挙することによって,論議を進める露払いをしている.生物系統学や生物地理学の知識がある読者ならば,ここで書かれている著者の問題意識や論旨を生物間の系統関係の推論問題にそのままなぞらえて容易に理解できるのではないかと思う.

—— この第1章だけで「197ページ」もある.先はまだまだ遠いな.※ De verboden vrucht の豊穣なる味わい.

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