『サボテンの花ひらく』

イェンス・ペーター・ヤコブセン[鷺澤伸介訳]

オンライン公開,最終改訂2008年2月9日,底本:Jens Peter Jacobsen (1927), Samlede Værker, Tredje Bind. Gyldendalske Boghandel, Kjøbenhavn)



アルノルト・シェーンベルクの大作〈グレの歌〉の出典は,デンマーク自然主義派の作家イェンス・ペーター・ヤコブセン(Jens Peter Jacobsen)の小説『サボテンの花ひらく(En Cactus springer ud)』(1868)だ.シェーンベルクは,ヤコブセンのドイツ語訳全集に所収されたこの小説のストーリーに基づいて,〈グレの歌〉という拡大五管編成の大曲を10年がかりで1911年に完成させた.手元にある総譜をめくると,40段を越えるパート譜がまるでパイ生地かミルフィーユのように上から下までぎっしりと積み重なっている.

しかし,ぼくの関心はシェーンベルクではなく,むしろ原作者のヤコプセンに向かっている.ヤコブセンは,作家にして進化論者というふたつの顔をもっている.彼の経歴はなかなかおもしろいな.

ヤコプセンの自然主義派文学者としての側面は,日本語の紹介記事(→たとえば Wikipedia)から知ることができる.彼は38歳という若さで結核のために夭逝してしまうのだが,遺された文学作品はデンマーク王立図書館(Det Kongelige Bibliotek)のサイトからリンクされている.また,〈Project Gutenberg〉には,英訳された『Mogens and Other Stories』が載っている.さらに,彼は多くの歌詞も遺していて,同国の世界的作曲家 Carl Nielsen が音楽をつけているものもある(→サイト).

しかし,もう一つの顔である,植物学者にしてダーウィン主義者としてのヤコブセンについては,少し掘り進む必要がある.16歳(1863年頃)でコペンハーゲン大学に入学し,植物学を専攻した.とくに,淡水性藻類が専門で,大学に提出した論文は金賞を受賞したという.そのような自然科学のバックグラウンドがあればこそ,ヤコブセン自然主義派(かつ無心論者)としての文学活動が成り立ったのだろうとデンマーク語版のWikipediaには書かれている.

ヤコブセンが,デンマークでのダーウィン進化論の普及に貢献することになるのだが,その契機の一つはヴィルヘルム・メラー(Vilhelm Møller)が1870年に創刊した月刊誌『Nyt dansk Maanedsskrift(New Danish Monthly)』に,ダーウィン進化論に関する論考を数多く寄稿したことだった.ヤコブセンの手になるそれらの記事は〈Darwin Online〉に引用されている.そして,ヤコブセンの没後,メラーが編者となって『Darwin hans liv og hans lære(ダーウィン:その生涯と学問)』(1893年)という論文集が刊行された.

ダーウィニズムに関する執筆活動と並行して,ヤコブセンチャールズ・ダーウィンの著作のデンマーク語訳をも手がけた.Aarhus Universitetのサイト〈Darwin i Denmark〉を見ると,彼は1872年に『種の起源』を翻訳出版し(『Om Arternes Oprindelse』),さらに1874-5年には『人間の進化と性淘汰』の訳業(『Menneskets Afstamning og Parringsvalget』)を完成させたという.ダーウィンのふたつの主著を翻訳したということだけでも十分な貢献と言えるだろう.

ヤコブセンの文学作品のうち主要なものはかつて日本語にも翻訳されたらしいが,現在ではそのほとんどは入手困難だ.しかし,シェーンベルクの〈グレの歌〉の原作となった『サボテンの花ひらく(En Cactus springer ud)』は,その全訳が〈プロジェクト杉田玄白〉の正式参加作品としてオンライン公開されている(鷺澤伸介訳,最終改訂2008年2月9日).実にありがたいことだ.

ヤコブセンが弱冠21歳のときに手がけた小説『サボテンの花ひらく』は未完に終わった習作だが,その作中劇のひとつとして「グレの歌」が含まれている.ヴァルデマール王とトーヴェ姫をめぐるデンマーク中世の実話をベースにして,ヤコブセン自身の自然主義的思想をもそこに付け加わって成立したという.たとえば〈グレの歌〉の第3部に登場する語り手(Sprecher)による歌い語り(Sprechgesang)は,ヤコブセンの nature writing のような歌詞と,すでに現代音楽に足を踏み入れつつあったシェーンベルクの音楽という時を越えた協力のたまものなのだろう.

—— ヴァルデマールとトーヴェの物語は,そのうちぼくの『』連載記事に登場することになる.