『歴史・レトリック・立証』

カルロ・ギンズブルグ[上村忠男訳]

(2001年4月16日,みすず書房,212 pp., 本体価格2,800円, ISBN:462203090X目次版元ページ

【書評】※Copyright 2001 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

ちょっと地味目のタイトルではあるが,歴史復元のもっとも根本的な問題−しかも現代的−を論じた論集で,系統学や進化学に関心のある読者にとって本書は意外に関係が深いように思われる.
本書は,歴史がレトリックとしての叙述(narrative,ナラティヴ)であり,したがって経験的な意味での「立証」とは相反する行為である,という懐疑論ロラン・バルトのレトリック論,ヘイドン・ホワイトのメタ歴史論, ダナ・ハラウェイの社会構築主義など−が,最近流行のポストモダン相対主義的な歴史観として定着しつつあると指摘する.
この歴史観のもとでは,「歴史叙述にとってもレトリックにとっても基本的な目的は真理ではなく効果性である」と宣言される(p.50).聴衆(読者)を説得できればそれでいい,それは真理とは関係がなく,厳密な検証も不要だという考え方だ.そして,「歴史叙述をそれのナラティヴ的ないしレトリック的次元に還元してとらえよう」(p.2)とするこの歴史観は,より大域的な「言語論的展開」あるいは「レトリック論的展開」の旗頭として,歴史の「経験的立証」という行為の可能性に対してきわめて冷淡な態度を示し,それは嘲笑すべき考え方であるとみなしていると著者は考える.
このような懐疑論的スタンスの背後には「レトリックは立証と無関係であるだけでなく対立する関係にある」(p.4)したがって「レトリックと立証とは両立し得ない」(p.40)という共通の仮定が潜んでいる.相対主義−「温和な相対主義」と「獰猛な相対主義」のふたつの版があると著者は言う(p.4)−の浸透が,この根本仮定をいまの歴史学に根付かせている.
著者は,「真理の探求こそは歴史家たちもふくめておよそ探求をおこなおうとするすべての者にとって依然としてもっとも基本的な任務である」(p.71)という基本的な姿勢のもとに,上の懐疑主義に対する反論を本書で行なっている.彼の反論の骨子は,「歴史がレトリックにすぎないのだ」という懐疑主義派の主張を「両者の関係は薄弱である」というカウンター主張で反論することではない.むしろ逆に,両者の密接な関係を認めた上で,レトリックという概念そのものがアリストテレスの『弁論術』以来連綿として経験的立証をその根幹に含んできたという指摘をすることで,歴史がいまなお経験的立証の対象なのだと主張する戦術を採用する(p.73).この戦術はなかなかいいと私は思う.
アリストテレスによるレトリックの分類は第1章で議論される.とくに,『弁論術』(岩波書店版のアリストテレス全集だと第10巻)で詳述されている「エンテュメーマ」(説得のための推論)に著者は着目する:


それらしき証跡からのエンテュメーマというアリストテレスのより緩やかな定義には「“最善の説明に向けての推理”(より古い言い方では,結果から原因へとさかのぼっていく推理)のような不可欠の推論様式」がふくまれている(p.67)

歴史がレトリックであること,そのレトリックが本来エンテュメーマ(遡行推理)としての推論様式を保持してきたこと,の二点から,歴史は推論あるいは立証の対象であり続ける.では,レトリックが立証とは無縁であるという誤った見解はなぜ生じたのか? 第2章でこのテーマに取り組んだ著者は,後世の弁論術やレトリックに絶大な影響を残したキケロがその責めを負うべきだと考えている(p.91).
レトリックが立証とは矛盾するという懐疑主義の見解はもはや鵜呑みにはできない.歴史家は立証という行為をふたたびまじめに考えるべきだという著者は,歴史を推論するためのデータのもつ役割について,こんなユニークな表現をしている:


資料は実証主義者たちが信じているように開かれた窓でもなければ,懐疑論者たちが主張するような視界をさまたげる壁でもない.いってみれば,それらは歪んだガラスにたとえることができるのだ.(p.48)

「ガラス」の「歪み」はさまざまな個別要因で生じるわけだが,それをデータとして歴史のエンテュメーマをするためには,「ひとは証拠を逆撫でしながら,それをつくりだした者たちの意図にさからって,読むすべを学ばなければならない」(p.46).こうして,かつての実証主義でもなく,相対主義構築主義でもない第3の道が拓かれると著者は結論する.
生物に関わる内容はいっさい含まれない本ですが,歴史(系統や進化もここに含まれる)の推論基盤を論じた本としては最近まれに見るクリアな本だと私は感じました.

三中信宏(26 October 2001)