かつて,とある本の原稿を依頼され,例によって進捗が滞っていたら,「夏休みか冬休みの時間のあるときにまとめて書いてください」と言われた.大学ならまだしも独法研究所にもそんな「休み」があると世間では考えられているのかと愕然とした.大学の「夏休み・冬休み」はあくまでも学生にとっての休暇であり,教員やポスドクのものではない(と思う).ましてや,学生がいない(ことになっている)独法研究所にはそういう「長期休暇」の観念それ自体がない.
大学ならば,研究者が長期の休みを取ろうと思ったら,「サバティカル制度」が置かれているところもある.たとえば東大なら「東京大学教員のサバティカル研修に関する規程」に定められているとおりだ.実際に希望者がいつでもそれを使えるかどうかは別問題だが.しかし,独法研究所の研究員には大学並みの「サバティカル制度」はまったくない(少なくとも農水関係では).だから,まとまった自由時間を使って何かをするという制度はそもそも存在しない.
研究者がまとまった時間をもてないことは,日々走り続けているときはえてして自覚されにくい.常時┣┣" たちに囲まれて気がつけば一日が終わってしまう.思い当たる人はきっと多いだろう.そういう慌ただしい日常が長期間累積されて,ある日ふと気づくわけだ.
「私はいったい何やってんだろう?」って.
以前の新聞記事だが:鎌田浩毅「優れた教科書」(2001年7月24日)は,日本の大学教員は多忙すぎて専門分野の教科書を書く時間がなく,彼我の格差をさらに広げていると指摘している.この点は独法研究員だって同等だろう.また,先月の記事:現代ビジネス「アメリカ人新聞記者は1年間のサバティカル休暇をもらって本を書く」(2012年2月16日)にも,日本の職場環境でサバティカルがとりづらいことが執筆時間を確保できない要因だと指摘されている.
まとまった文章を書いたり,しっかりものを考えたりするのに,細切れの時間ではどうしようもない.自分が関わってきた研究活動を自分でまとめるという作業を研究者自身がしないことには,悪い意味での「歯車」あるいは「部品」で終わってしまうかもしれない.主体的に使えるまとまった時間をもつということは,それくらい大切なことだとワタクシは思うのだが,どうもその認識はあまり共有されていないように日々感じている.日々の研究の蓄積を研究者自身が知らないどこかで自分ではない誰かが勝手に「取りまとめて」パブリックな研究成果として「対外的に広報する」というのでは,いつまでたっても研究者自身が自分の仕事を体系づけることはできないだろう.
もちろん,本を書くだけが唯一の選択肢ではない.しかし,それ以外の選択肢を考えるときも,まとまった時間が必要であることにはちがいがない.昼夜走り続ける大学や独法研究所の研究者は立ち止まって考える時間と余裕がいつかはどこかで必要だろうと思う.
—— さあ,自分の「森」に帰ることにしよう.