『よくわかるメタファー:表現技法のしくみ』

瀬戸賢一
(2017年7月10日刊行,筑摩書房ちくま学芸文庫・セ-6-1],東京, 321 pp., ISBN:9784480098054目次版元ページ

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分節分類法と包摂分類法:隠喩・換喩・提喩の仕分けについて



文彩としての修辞法について多数の具体例を挙げながらわかりやすく書かれた本である.ワタクシ的には,体系化に関わる隠喩(メタファー)・換喩(メトニミー)・提喩(シネクドキ)の仕分けに関心があるので,それに焦点を絞って著者の見解をまとめる.



著者は,第2章「分けて分かる」において,ふたつの「分類法」を定義する.それは「分節分類法」と「包摂分類法」である:


    【分節分類法】
  • 「部分で分ける方法は,ふつう節で分けるので,分節分類法(partonomy)と呼ぼう.この分類法は,あくまで個物を対象とする.この点は,次の節で見る種類で分ける方法と区別する上で重要である.部分で分ける目的は,言うまでもなく,よく分かるためである.まるごと捉えるのがむずかしいとき,部分に分けて対象を小さくする.小さくすると扱いやすい.部分的にひとつずつ攻略できるからである」(p. 45)
  • 「こうして部分を理解し,その部分をすべて集めれば,ひとつの大きな全体になる.が,たんに部分を集めただけでは部分の集合にすぎない.全体には,ふつう部分に見られなかった機能や意味が加わる」(p. 47)


    【包摂分類法】
  • 「分けて分かるには,もうひとつ手段がある.種類で分ける方法である.部分で分ける方法は,大きな全体を小さな部分に切り分け,扱いやすく,理解しやすくする.これに対して,種類で分けるとは,同じく犬を例にとると,個物としてではなく類と捉えて,その種類を考える」(p. 47)
  • 「部分で分ける方法は〈切って分ける〉,種類で分ける方法は〈まとめて分ける〉.稚貝は明らかだろう.切り分け方式は,特定の個物に刻みを入れる.まとめ上げ方式は,ある対象がどの仲間に属し,どの仲間を引き連れてくるかを考える.部分で分ける方法を分節分類法と呼んだのに対して,種類で分ける方法は包摂分類法(taxonomy)と呼ぼう.「包摂」とは,「包み込む」ということである」(p. 48)



著者はこのふたつの「分類法」は並列的に同格であると主張する:


  • 「ふたつの分け方に優劣はない.ともによくわかるための大切な思考の経路である.分節分類法は個物を対象とする.この分け方=分かり方は,より広くは,世界を_地続き的_に理解する方法である.個物を中心にして,その内側は部分に分かれ,その部分はさらに小部分に分かれ,その部分がすべて地続き的につながって全体を構成する.他方,同じく個物を中心にして,個物は周りの世界(の個物)と地続き的につながっている.個物は,周りの世界《の一部》となる」(p. 50)
  • 「もうひとつの包摂分類法は,カテゴリーを対象とする.この分け方=分かり方は,類と種の関係で世界を_類型的_に理解する方法である.本来,世界のなかには個物が散らばった地続き的な関係しか存在しないはずである.そこに認識主体が登場して,ある観点から,バラバラな個物を類と種の関係でまとめる」(p. 51)



第7章「隣接の世界」では,上の「分節分類法」と「包摂分類法」がそれぞれ換喩(メトニミー)と提喩(シネクドキ)に対応すると種明かしされている:


  • 「メトニミーとは,(現実)世界の中で隣接関係にある(と思われる)ものとものの間で,一方から他方へ指示が横すべりする現象である」(p. 140)
  • 「メトニミーは,指示的には「隣接関係に基づく横すべり」,意味・機能的には「全体性」,認知的にはベーシックな「際立ち」(saliency),認識的には「直接的な関心の在りか」,コミュニケーション的には「経済性」を示すとまとめられる」(pp. 150-151)
  • 「「隣接関係」は,地続き的な関係である.地縁も血縁も地続き的な関係である.地続き的とし,同じひとつの場を共有すること.「場」は,共通な空間と時間をもつ.ひとつの空間の中でものとものとが隣接する.つまり,共存する.そこで出来事が起これば,ひとつの空間を貫いて一連の時間的な連続が生じる.空間的な「共存」と時間的な「連続」,これがメトニミーのおもな基盤である」(p. 151)
  • 「シネクドキとは,より大きなカテゴリー(類)とより小さなカテゴリー(種)との間の包摂関係(と見なせる関係)に基づく意味的伸縮現象である」(p. 155)
  • 「シネクドキがメトニミーと決定的に異なるのは,シネクドキがカテゴリーとカテゴリーの関係だという点である.メトニミーでは,その基盤が世界の中のものとものの隣接関係にある.メトニミーがもの(個物)をベースにするのに対して,シネクドキはカテゴリー(範疇)を相手にする」(p. 155)



つまり,“地続き” としての全体を部分に分ける分節分類法は隣接関係を仮定するメトニミーとして解釈できるのに対し,カテゴリー(範疇,類)の間の包摂関係に着目する包摂分類法はシネクドキと考えられる —— これが著者の主張の核心である.



ここまでの部分では隠喩(メタファー)への明示的な言及はないが,これら三者を比較すると次のようになる:


  • 「メタファーは,一言でいえば,未知を既知で表現する方法である.未知なものは,典型的には,抽象的でわかりにくく,既知のものは具象的でわかりやすい.わかりにくいものをわかりやすいものに見立てて理解するのがメタファーである」(p. 161)
  • 「これに対して,メトニミーは,隣接関係に基づいて世界を理解する方法である.世界を地続き的に理解する方法だと述べた.世界のなかの顕著なものに着目し,それを起点として目指す対象を指示する.そして,対象を指示しながら,同時に,起点のもの自身をも語る.他方,シネクドキは,類と種の包摂関係に基いてカテゴリー関係を理解する方法である.これは,類別的に諸事象を理解するということである.種から類を理解する.あるいは類から種を理解する.種をプロトタイプ(典型例)として類を把握する.あるいは類の一般概念から種の特殊概念を推し量る」(pp. 162-163)



著者の見解を見るかぎり,メタファーの位置づけがいささかあいまいで,よくわからないようにワタクシには感じられた.メタファーが抽象を具象によって “見立てる” ということは,ある種の “類似性” の認知を前提にしてはじめて可能になるだろう.一方,シネクドキはカテゴリーの存在を前提とするわけだが,そのカテゴリーそのものもまた “類似性” を仮定しなければ成立し得ないだろう.著者自身はメタファーとメトニミーとシネクドキは互いに独立しているとみなす:


  • 「メタファー・メトニミー・シネクドキは,理解の主要な三方式——認識の三角形——であり,私たちの主要な思考経路でもある.これらは,理解の方式や思考の経路が互いに異なる——メタファーは見立て,メトニミーは地続き,シネクドキは類別——が,いずれも効率よく物事を理解し,思考し,伝達する方法だという点で一致する」(p. 163)



結論となる終章「二五〇〇年比喩の旅」でもこの結論は繰り返されている:


  • 「シネクドキがカテゴリーをベースとする包摂関係に基づくとすれば,隣接関係に基づくメトニミーとも,類似関係に基づくメタファーとも明確に区別すべきである」(p. 297)



ワタクシ的には,メタファーとシネクドキはともに “類似性” を前提とする修辞法なのだからひとつにまとめてメタファーと呼べばいいのではないか.つまり,包摂分類法とは “類似性” を踏まえたメタファーによる分類にほかならないということだ.



体系学的に言えば,メトニミーは「全体-部分関係(whole-part relationship)」に基づく体系化,メタファーは「集合-成員関係(set-member relationship)」に基づく体系化となる.メタファーを細かく見れば,ある “類似度” による同値関係に基づく同値類(カテゴリー,類,クラス)の定義および生成された同値類間の階層関係(⊆)の構築というふたつの部分に分けられるだろう.本書の著者は,前者をメタファーと呼び,後者をシネクドキとみなしているようだが,両者をあえて分ける必要はないとワタクシは考える.



この結論はワタクシだけの独断ではない.たとえば,佐藤信夫レトリック感覚』(1992年6月10日刊行,講談社[学術文庫1029],ISBN:4061590294)にはこんなくだりがある:


  • 「ともかく本質的に,提喩と隠喩は同系のことばのあやである.そしていずれも,語句の意味的な類似性にもとづく比喩であるという点が共通で,現実的な共存性にもとづく比喩である換喩とは対立するものだ言わなければならない.いつも提喩を換喩に近いものとして説明してきた古典レトリックの考え方を,私たちは修正しなければならぬであろう」(p. 201)



結論として:「分節分類法=メトニミー=系統樹思考」と「包摂分類法=メタファー=分類思考」という対置が可能になる.体系学的にはシネクドキという区分はもはや不要だろう.



三中信宏(2017年10月20日



追記(2017年10月22日):本書には「索引」が付けられていないせいで資料的価値が大きく損なわれている.]