『社会生物学論争史:誰もが真理を擁護していた1』

ウリカ・セーゲルストローレ

(2005年2月23日刊行,みすず書房ISBN:4622071312



第7章「淘汰の単位と,文化との関連」および第8章「批判に適応する社会生物学:『遺伝子・心・文化』」を読了.第7章の中心テーマである〈unit of selection〉論争に関連して,著者はアメリカの[とくにハーヴァードの]全体論(holistic)的な思潮の影響が大きかったという点に注目する.確か,半世紀前のシカゴ大学生態学派も全体論的という特徴を共有していたそうだが,それと関係があるのかしら.淘汰単位は遺伝子だけではなくもっと階層的に複数の単位があり得るという multi-level selection の話題は,現代ではシンプルに自然淘汰の対立モデル間の選択に関わる論議(model selection)として表面化している.しかし,社会生物学論争が沸き立っていた頃は,もっと哲学的・政治的な文脈のもとで階層的淘汰理論が論じられていたわけで,ルウォンティンやグールドそしてレヴィンスの立論基盤もそこにあったのだろう.

エルンスト・マイアのいう「unity of genotype」(「遺伝子型の単一性」[p. 231]と訳されているが,「遺伝子型の統一性」の方がいいかも)もまたこの全体論的思潮に沿っているという指摘は新鮮だ(確かにそうだったのかも).グールドがアンチ社会生物学の文脈で,さらには彼とエルドリッジが断続平衡理論を提唱するときに,繰り返しマイアの「unity」概念を引き合いに出してきたことを思い起こせば,納得できる指摘だ.

続く第8章は,けっきょく和訳されなかったラムズデン&ウィルソン『Genes, Mind, and Culture : The Coevolutionary Approach』(1981年,Harvard University Press, ISBN:0674344758)をめぐる話.いくつかの書評では徹底的に叩かれたが,文化遺伝子(「カルチャージェン」[p. 272]ではなくって,「クルトゥルジェン」ですね)が提唱された本だった.文化進化モデルをめぐるウィルソンとルウォンティンの「科学的知識」観のちがいが鮮明にあらわれ,モデルを立てることが重要なのだとみなすウィルソンに対して,「科学は証明ずみの知識に基づくものだ」(p. 286)と信じるルウォンティンは徹底的に反論する.それはけっして解消され得ないことが明白な〈メタ〉な信念対立であるだけに,当事者にしてみれば消耗戦だったのだろう.