Heinz Brücher
(1936年刊行,J. F. Lehmann, München)
エルンスト・ヘッケルとその姻戚の家系を網羅的にたどった単行本.おお,これはみごとなフラクトゥール書体ですこと.何よりもこういう本が書かれた背景がとてもおもしろい.もちろん本人はとうに亡くなっているのだが,たとえ超有名人であったとしてもある一族の“家系”をたどるためだけにおよそ200ページもの紙数が費やされ,さらには長さ2メートルに達する“家系図”が2葉も添付されているというのはただごとではない.この本を手に取って読み進んだのはいったい誰だったのか.
1888年に自家出版されたチャールズ・ダーウィン一族の家系図の本が手元にある:R.B. Freeman(ed.)『Darwin Pedigrees』(1984年復刻刊行,非売品)しかし,こちらの原本はダーウィン家の身内の中でのみ回覧するためにたった60部だけ印刷されたという大判の薄い本だ.そしてそこに載っている家系図と言っても,紋章や署名だけが図示されているだけなので,あまり生身の人間をそこに感じることはほとんどなく,16世紀以降の“記号”が連綿と連なっていると言った方がきっと当たっているだろう.
しかし,ヘッケル一族の家系図はちがう.添付された2葉の家系図のうち写真入りの1枚は単なる系譜のつながりを示しているだけだが,問題はもう一方の巨大な家系図の方だ.こちらには,個人ごとの生年月日・没年・身体的特徴(体躯・眼色・髪色など)・職業・病歴・性格・宗教が細かく書き込まれている.この生々しさ.ここにいたって,本書の意図するところが見えてくる.明らかに当時のドイツでの「優生学的」な思潮が背景にあるのではないかと感じる.
そういう社会的背景や動機づけはさておき,判明した範囲のすべてのヘッケル家の一族が顔写真入りで載っているというのは本書をおいて他にはないだろう(初めて目にする写真も少なくない).今のところ,まだ真っ黒なフラクトゥールを方々舐めまわしているだけなので,中身に入り込んだわけではない.本当に「優生学的な」本なのかどうかもまだ定かではない.とてもフシギな,そしてヤバそうな本だ.