『ルィセンコ主義はなぜ出現したか:生物学の弁証法化の成果と挫折』書評

藤岡毅
(2010年9月25日刊行,学術出版会,東京,283 pp.,本体価格3,800円,ISBN:9784284102858目次版元ページ)

新幹線車中にて読了.第二次世界大戦敗戦後の日本で流行した「ルィセンコ主義」について,ソヴィエト国内の原典を読み解きつつ,この生物学史エピソードの深層に切りこんだ新刊.とりわけ,「ルィセンコ主義」前夜にあたる1920〜30年代のソヴィエト国内での「文化革命」に関する記述は圧巻だ.デボーリン派 vs. ミーチン派の論争については中村禎里『ルィセンコ論争』(1967年,みすず書房)の冒頭で簡単に触れられていたが,本書ではそれを中核に据えて論争の経緯を詳細にたどっている.遺伝学に関する科学論争が,しだいに共産主義をめぐる政治論争に変貌していくさまはとても強い印象を残す.研究レベルの高かったソヴィエト遺伝学がいかにして「ルィセンコ主義」の擡頭のもとで崩れていったかは,科学と政治の関わり合いを考える上でとても参考になる.

先日の9月20日(月),岐阜大学にて開催される第16回野生生物保護学会・日本哺乳類学会2010年度合同大会の自由集会〈哺乳類学者・進化学者 徳田御稔の足跡〉では,戦後「ルィセンコ主義」の時代に華々しい政治的言説で有名だった徳田御稔の「種」概念に関する講演をした.本書では徳田御稔に関してはまったく言及がないが,当日の講演では本書を紹介しつつ,徳田御稔の『二つの遺伝学』(1952年,理論社)での弁証法唯物論と生物学との関わりについて話をした.

この小集会には徳田御稔の関係者が何人も参加したとのことで,講演終了後に直接話しをする機会があった.

 裕福な家庭に生まれた徳田は,本来の気性は引っ込み思案で,学生の頃はきざなところもあったという.ネズミ類の分類学者としての研究活動していた頃の徳田には,戦後の「左翼的活動」を予期させるものはなかったようだ.徳田御稔がマルクス・レーニン主義の洗礼を受けたのは,戦死した可児藤吉生態学者)からマルクス資本論』をはじめとして教えを受けたからだとのこと.戦前戦中を通して京都には思想的にリベラルなコミュニティがあり,徳田はそこからもさまざまな情報を得ていたらしい.

 

 地団研井尻正二が敗戦直後から日本共産党の科学技術部長として共産党の最前線で活動していたのとは対照的に,徳田御稔は最後まで共産党員ではなかった(後年はむしろ“反代々木”).徳田の『二つの遺伝学』に見られるソヴィエト寄りの内容・文体から想像される人物像とは大違い.徳田御稔は「話す」とマイルドなのに,「書く」と激烈になるという癖があった.それは意図的に「文章では主張を明確に」という主義をもっていたからだそうだ.人格的には決して頑固ではなかったとのこと.

 

 徳田御稔がルイセンコ学説を信奉していたのは,政治的ではなくむしろ生物学的な理由による.生物の地理的変異に関心を持ち続けた徳田が,ミチューリン会の下伊那試験地での「ヤロビ農法」に共感をもったのもその理由による.とりわけ,ルイセンコの種概念には強く賛同していたらしい.ソヴィエト共産党内での1920-30年代の「文化革命」で勝利した「ミーチン主義」は弁証法唯物論の自然科学に対する優位を“政治的”に決定づけた.しかし,ミーチンの文献はすでに京都のコミュニティでは読まれていて,その空虚さへの批判があったらしい.

 

 むしろ徳田御稔が強い影響を受けたのは,ミーチン主義がスターリン=ソヴィエト共産党の中央綱領と化す前の,ソヴィエト遺伝学がまだ全盛期だった頃の生物学的成果の方だったとのこと.徳田は,政治的に活動するよりも生物学者としての顔を持ち続けたようだ.ある意味でピュアだったのかも.

「徳田御稔」・「ルイセンコ主義」・「ミチューリン会」など,戦後日本の生物学のエピソードについては,生き証人たちがこの世からいなくなる前に証言を集めておかないと困るだろう.

本書は著者の学位論文を踏まえて書かれたという.戦後同時代の地団研活動を論じた:泊次郎『プレートテクトニクスの拒絶と受容:戦後日本の地球科学史』(2008年6月2日刊行,東京大学出版会,vi+258 pp.,本体価格3,800円,ISBN:9784130603072書評目次版元ページ)と並ぶ充実した読後感をもった.