『世界を,こんなふうに見てごらん』

日高敏隆

(2010年1月31日刊行,集英社,東京,163 pp.,本体価格1,300円,ISBN:9784087814361版元ページ

【書評】※Copyright 2010 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

日高敏隆」といえば,何よりもまず行動学者コンラート・ローレンツの主著『ソロモンの指輪』の訳者として名前が挙がる.本書は,昨年11月に亡くなった著者が,雑誌『青春と読書』に連載してきたエッセイを中心にまとめた単行本である.若い世代の読者に向き合って,自然や人間に対する素朴な好奇心の発露がどのように科学といういとなみに結びついているのかについて語りかける文体は,これまで出版されてきた著者の数多くの著書やエッセイ集などでおなじみのものである.身のまわりの生き物に関心を持ち始めた生い立ちから始まり,生物の生態や行動の研究を志した当時の東京大学東京農工大学,そして京都大学の雰囲気を伝えつつ,現在大きく発展しつつあるこの研究分野の行く末を見やっている.

とりわけ,著者が長い学究生活を通して経験してきた研究現場や所属した学会あるいは勤務した大学・研究所でのさまざまなエピソートが興味深い.ときとして社会的慣習にそむくような,あるいは常識に必ずしもとらわれない著者の姿勢は,生き物をながめるまなざしにも,また人間社会を見据える視線にもにじみ出ている.若い世代の科学者の間では,複数の外国語に通じる教養はもう見られなくなってしまったが,著者の世代ではそれがまだ生きている.いい意味での教養人がもっていた視野と度量の広さを感じ取る読者は少なくないだろう.

たまたま,本書を読み始めた二月の初め,京都の宝ケ池では著者の「お別れ会」が七百名あまりの参加者を集めて盛大に開催されたという.タバコとハイボールをこよなく愛した著者をしのぶべく,会場には喫煙場所が設けられハイボールが来場者に振る舞われたという.著者は本書の中で,科学とはこの世界のなりたちといとなみをめぐるイマジネーションを喚起するが,同時に科学的言説はイリュージョンに次ぐイリュージョンでもあると述べている.

著者のようなタイプの生物学者は現在ではすっかり影を潜めてしまったが,彼が育てた人材の多くはいま日本の科学者コミュニティを支える中核として活躍している.当日「お別れ会」に参加した知人の女性は,「もうこれで日高先生に会えないかと思うと涙が出てしかたがなかった」と言っていた.公私にわたり多くの人々に慕われつつ送られた著者は幸せだったにちがいない.

三中信宏(16 February 2010)※本書評は改訂されて時事通信社から配信された.