「本は残さず “完食” しよう」

YOMIURI ONLINE本を読まない大学生、初めて4割超す…生協調査」(2014年2月26日).要するに「本」を丸ごと読まなくなってきたということね.「本」ではない「活字情報」であれば,もっと “摂取” しているだろうけど.研究者であっても,自分の専門分野の「本」を丸ごと(=「序文・目次から索引まで」ということ)読まないことが多くなってきたのでは? 専門書の電子本でも各章ごとの「切り売り」さえ見られる現状ならけっしてフシギではない.専門分野のジャーナルだって,いまは論文ごとの「切り刻み」を pdf にしてばらまいているようなもの.ある巻のある号の「全体」を見わたすことってやってないんじゃない? 

「あるジャーナルのバックナンバーを創刊号から最新号まで通読する」というのは,ワタクシの大学院時代に心がけていたことです.しかし,こんなにジャーナルが増えて投稿数もうなぎのぼりになったのでは,そーいうやり方は通用しないかも.にもかかわらず,「本」や「ジャーナル」を丸ごと読む行為には意義があると信じている.「本」でも「論文」でも,「必要最低限」の知識断片を拾い読みですませてよしとする風潮かなあ.取扱説明書やマニュアルの拾い読みみたいな感じ.

ワタクシが一冊の本を書くときは,読者にも(編集者にさえ)わからないような伏線をそっと張り巡らすのを愉しみにしている.一部分だけ拾い読みしたのではけっしてわからないように.それは書き手だけの悦楽.本はほかならない自分のために書いている.〈ブクログ〉や〈読書メーター〉で自分の本に関する「書評確率分布」を構築すると,匿名書評者たちがどの程度の「読む取る力」があるのかが見えてくる.書評者たちは,自分が書く書評文の集積(=書評者ごとの「周辺分布」)を通して,逆に評価されているということ.

ワタクシの場合,そういう微かな伏線はペダンティックな引用文に潜んでいることもあり,本文中の文章に埋め込まれていることもある.場合によってはカバージャケットのウラ側に本質が潜んでいることもある.ちゃんと読まないとわからないように.一度だけ,絶対にわからないはずの伏線を見つけてしまった書評者がいて,あのときは震え上がった.目利きの読者はいるところにはちゃんといるんだ.そういう読者に向けてワタクシはこれからも本を書こうと思う.

—— 本や雑誌の必要箇所だけを拾い読むことは「情報摂取」ではあっても「読書」とは呼ばない.